お前のために
リーリエが泣いている。
書斎の蝋燭がたった一本だけ灯っている。炎が揺れ、影が壁の上で大きくうねった。窓の外は冬の闇。床に膝をつき、両手をつき、崩れ落ちたまま。銀灰色の髪が石の床に広がっている。月の光がその髪を白銀に染め、まるで床に流れた水のように見えた。嗚咽が漏れている。声にならない泣き声。肩が震えて止まらない。嗚咳のたびに背中が痙攣し、細い身体が波打っている。
そしてカインは——リーリエの前に膝をついた。石の床が膝に冷たい。しかしそんなことはどうでもよかった。
石の床が膝に当たる。硬い。冷たい。五百年間磨かれた石の床が、骨に食い込む。しかしそんなことは——どうでもよかった。石の冷たさなど、今はまったく意味を持たない。
両腕でリーリエを包んだ。
強く。しかし壊さないように。骨が軋まないように。けれど離れられないように。五百年の歳月で磨かれた腕力は、剣を振るうためだけのものではない。城壁を砕き、魔物を両断する力が——今は、一人の少女を抱きしめるために使う。全力の制御。全力の繊細さ。力の限りを尽くして、壊れない強さで抱きしめる。
リーリエの身体は——軽かった。恐ろしいほど軽かった。命が削られ続けた身体。聖女の力に蝕まれた華奢な骨格。腕の中に収まるその重さが——カインの胸を抉った。こんなにも軽い。こんなにも細い。肩の骨が掌に触れ、肋骨の輪郭が腕に感じられる。この身体に——世界が乗っている。この細い肩に——七十億の命が載せられている。
リーリエが最初、抵抗した。両手でカインの胸を押し返そうとした。力のない手が、黒い外套を押す。指が布地を掴み、押しのける。押し返す力がない。泣き疲れて、怒り疲れて、一晩中眠れなかった身体には、抵抗する余力が残っていなかった。けれど——抵抗しようとした。その意志だけは、ある。
やがて——力が抜けた。
押し返す手が、そのままカインの外套を掴んだ。指が黒い布を握りしめた。縋るように。溺れる人が流木を掴むように。きつく、きつく。指が白くなるほど。布地に皺が寄り、カインの胸にリーリエの指の形が押し込まれた。
震えが——少しずつ、収まっていった。
カインの体温が伝わっている。人間よりも高い体温。聖なる炉の残滓が身体に宿る、異常な温かさ。普通の人間なら発熱と間違えるほどの高い体温だ。しかしリーリエにとっては——それがちょうどよかった。冷えきった身体に、じわりと沁みる温もり。凍りついた手が、少しずつ溶けていくような。紋章の鈍痛すら、この温もりの前では僅かに遠のく。
長い時間が流れた。どれくらいの時間かはわからない。蝋燭が一本分短くなったか、それとも二本分か。窓の外の朝日が角度を変えた。東の空が橙から白に変わり、部屋の中の影が短くなっていった。それだけが時間の経過を示していた。
嗚咽が静かになった。肩の震えが収まった。リーリエの呼吸が——落ち着いてきた。深い呼吸。涙の後の、浄化されたような呼吸。身体から毒が抜けたような——そんな呼吸。吸って、吐いて。吸って、吐いて。規則的な、穏やかなリズム。
カインが口を開いた。
「わからない」
低い声。静かだが——正直な声だった。飾りのない、偽りのない声。嘘をつかないと誓った男が、最初に差し出す言葉が——「わからない」だった。
「どうすればいいか、俺にはまだわからない」
リーリエの指が——カインの外套を握る力が、僅かに強くなった。布地を通して、カインの心臓の鼓動が伝わっている。規則的な、力強い鼓動。五百年間止まらなかった心臓。この心臓が——今、リーリエの耳元で打っている。
「聖女制度を終わらせる方法。お前を苦痛から解放する方法。世界を壊さずにお前を救う方法。——五百年探して、まだ見つかっていない」
嘘をつかなかった。
「必ず救う」とは言わなかった。「大丈夫だ」とも。「何とかなる」とも。根拠のない希望を与えなかった。リーリエが教会で聞かされてきた「崇高な犠牲」と同じ類の——空虚な慰めは、口にしなかった。教会は美しい言葉を並べた。「世界のために」「崇高な使命」「神の選び」。全て嘘だった。嘘で包んだ残酷だった。
カインは——嘘を選ばなかった。五百年間、嘘で自分を守ってきた男が。
代わりに——別の言葉を言った。
「だが、俺はお前のために道を探す」
リーリエが——微かに動いた。カインの胸に顔を埋めたまま。耳がカインの心臓の位置に当たっている。鼓動が——直接、リーリエの耳に響いている。
「世界のためじゃない」
カインの声が——変わった。自分でも気づいていない。いつもの「贖罪の意志」とは違う音色が、声の中に混じっている。もっと柔らかい。もっと温かい。もっと——切実な。喉の奥から絞り出すような、壊れそうなほど切実な声。
「お前のために」
その言葉が出たとき、カイン自身が驚いた。
口が勝手に動いた。考えて選んだ言葉ではなかった。胸の奥から——五百年の歳月を突き破って、出てきた言葉だった。贖罪の蓋をこじ開けて、その下にあった本音が——勝手に声になった。
世界のためじゃない。贖罪のためでもない。初代聖女を救えなかった罪滅ぼしでもない。
お前のために。
リーリエという名の、一人の人間のために。
リーリエが——顔を上げた。
涙で赤くなった目が、カインを見上げた。睫毛が濡れている。頬に涙の跡がある。鼻の先が赤い。唇が微かに震えている。けれどその目に——微かな光があった。凍結の下で、何かが灯っている。消えかけの蝋燭のような、頼りない光。けれど——灯っている。
「……お前のために、ですか」
声は嗄れていた。泣きすぎて喉が擦れている。けれど——言葉は確かだった。
「ああ」
「信じていいのですか」
その問いは——軽くなかった。二年分の「信じたかったもの」が詰まっていた。教会の「崇高な犠牲」を信じて裏切られた。世界の「聖女への感謝」を信じて裏切られた。もう何も信じたくなかった。信じることは——傷つくことの前段階だった。けれど——この人の言葉だけは。この温もりだけは。
「信じろ」
カインが言った。短く。力強く。迷いがなかった。一語に、全ての決意を込めて。
リーリエの目から——また涙が溢れた。けれど今度は、さっきまでとは違う涙だった。怒りでも絶望でもない。何と名づければいいのかわからない。ただ——温かい涙だった。冷たい涙と温かい涙があることを、リーリエはこの瞬間に初めて知った。
リーリエはカインの外套に顔を埋めた。声を殺して泣いた。今度は——抵抗しなかった。押し返さなかった。
カインの腕の中で——リーリエの震えが、ゆっくりと止まっていった。




