怒りと絶望
涙が止まらなかった。温かい涙が、頬を伝って床に落ちる。石の床に落ちた涙が小さな音を立て、暗い点を作った。一滴、また一滴。
リーリエは自分でも驚いていた。泣き方を忘れたと、ずっと思っていた。十五歳で聖女になってから、一度も泣いていなかった。泣く余裕がなかった。苦痛に耐えるだけで精一杯で、悲しむ余裕も怒る余裕もなく、ただ耐えて、耐えて、感情を凍らせて生き延びてきた。
涙を流すということそのものを、リーリエの身体は完全に忘れていた。身体が忘れていたのだ。目の奥が熱くなっても、頬が濡れることはなかった。枯れ井戸から水は出ない——そう思い込んでいた。
それが今ここで——決壊している。
「私は——何なんですか」
声が出た。自分の声が——こんなに大きいとは思わなかった。教会では小さな声しか出さなかった。この城でも、囁くような声で話してきた。感情を凍結するとは、声を凍結することでもあった。声帯が震えることを、喉が許さなかった。小さく、静かに、穏やかに。それが聖女に許された声の出し方だった。
今——二年間の凍結が解けている。声が出る。言葉が出る。止められない。堤防の亀裂から噴き出す水のように、一度開いた裂け目を塞ぐ力が残っていなかった。
「教会にとって聖女はただの燃料。世界にとっては道具。結界を維持するための——消耗品」
堰を切った水のように、言葉が溢れ出す。喉の奥で凝っていた塊が、一つずつ砕けて声に変わっていく。
「十五歳で選ばれて——いいえ、選ばれたのではない。《《見つけ出された》》のです。適性があったから。生まれつきの体質が、たまたま聖女に向いていたから。それだけの理由で——村から引き離されて、両親から離されて、教会に引き取られて。祝福されて。人柱にされた」
涙が頬を伝い続けている。拭わない。拭う余裕がない。拭ったところで——次から次へと溢れてくる。二年分の涙だった。凍結の下に溜まり続けていた水が、今ようやく地表に噴き出している。温かい。涙はこんなに温かいものだったのか。忘れていた。
「崇高な犠牲だと教えられました。世界のために命を捧げることは尊いことだと。教会の人たちは笑って、祈って、花を撒いて——私を送り出しました。『あなたは救世の器です』と。『世界があなたに感謝しています』と」
声が大きくなる。震えながらも——力がある。教会の祭壇で聖女の名を与えられた日を思い出していた。白い花弁が降り注ぎ、鐘が鳴り響き、司祭たちの笑顔が祝福の光に満ちていた。誰もが幸福そうだった。祝われている自分だけが——胸の中で、紋章の熱さに耐えていた。
「誰一人、本当のことは教えてくれなかった。痛みが一生続くことを。命が日に日に削られることを。先代も、その前も——二十二人の女が同じように消耗されて、死んでいったことを」
カインは動かなかった。一歩も。リーリエの言葉を、一つも遮らずに聞いている。両腕を下ろし、拳を握り、口を閉じて。深紅の瞳が揺れている。蝋燭の炎ではない——感情が、瞳を揺らしている。その拳の中で、指の関節が白くなるほど力が入っていた。
「先代の聖女は二十二歳で死にました。名前を覚えている人はいますか。顔を覚えている人は。彼女が何を好きだったか。何を夢見ていたか。どんな花が好きだったか。——誰か、知っていますか」
答えはない。答えはないだろう。二十二人の聖女は、名前を残さなかった。歴史に記されたのは「第何代聖女」という番号だけだ。名前は消された。個人としての記憶は、教会の記録から抹消されている。あの名簿を掘り起こすまで——誰の記憶にも残っていなかった。花に水をやる人がいなくなれば、花は枯れる。記憶もまた、誰かが抱き続けなければ消えてしまう。
「私は——私は何のために生まれたのですか」
その問いが——書斎に響いた。蝋燭の炎が大きく揺れ、壁に映る二人の影が一瞬歪んだ。石壁に反射して、こだまして、消えていった。残響が長かった。まるで石の壁が、その問いを記憶しようとしているかのように。
「燃料として使われるために生まれたのですか。結界を維持するために。世界の都合で消費されるために。——それが、私の存在する意味ですか」
カインの拳が——白くなるほど握りしめられていた。しかし口は開かない。リーリエの言葉が全て出し切られるまで待っている。嵐が過ぎるのを待つように——いや、違う。嵐を受け止めているのだ。一言も逃さず。一音も漏らさず。
「死にたかった」
リーリエの声が——急に、静かになった。叫びから——告白に変わった。波が砕けた後の、引き潮のような静けさ。嵐の目に入ったかのように、声から力が抜けた。
「ずっと——死にたかった。この苦痛から解放されたかった。死ねば楽になれると。それだけが——唯一の希望でした。暗い夜も、痛みで眠れない夜も。『いつか終わる』と思えたから——耐えられた」
涙が落ちる。床に。一滴、また一滴。石の床に小さな染みを作り、すぐに広がって消えていく。リーリエの命が結界に吸われるように——涙もまた、石に吸い込まれて消える。
「それすら——許されないのですか」
声が——再び、震えた。しかし先ほどの叫びとは質が違う。もっと深い場所から来る震え。もっと根源的な——存在そのものへの問いかけ。
「死ぬことすら許されないなら——私は——どうすればいいんですか」
最後の言葉は——悲鳴だった。声を張り上げたのではない。むしろ消え入りそうなほど小さな声だった。けれどその小ささの中に、叫びよりも深い絶望が詰まっていた。
聖女制度への告発。世界への問いかけ。自分の存在への根源的な疑問。二年間の苦痛と諦念と凍結した感情の全てが、一度に噴き出した。溜め込んだ時間が長いほど、噴出の力は大きい。二年分の沈黙が——ひとつの悲鳴に凝縮されていた。
リーリエの膝が——折れた。
立っていられなくなった。泣き疲れた身体が、支えを失って崩れ落ちる。床に膝をつき、両手をつき、銀灰色の髪が石の床に広がった。冷たい石の感触が膝を打ち、掌が冷えた床を押さえた。涙が床に落ちて、髪の先端が濡れた。
嗚咽が漏れた。声にならない泣き声。肩が震えている。全身が震えている。呼吸すらままならない。息を吸おうとするたびに嗚咽が割り込み、身体が痙攣するように揺れる。
カインが——動いた。
一歩。
リーリエが崩れ落ちた瞬間に、一歩前に出ていた。それ以上は——まだ近づかない。リーリエの言葉が全て出し切られるまで、待っていたのだ。全てを聞いてから。一言も遮らずに。
この人の言葉を、全て受け止めてから。
リーリエの嗚咽だけが、書斎に響いていた。蝋燭の炎が揺れ、二人の影が壁の上で重なりかけていた。




