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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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なぜ教えてくれなかったのですか

 夜が明けない。


 リーリエは塔の部屋にいた。椅子の上で膝を抱えたまま、何時間が経ったのかわからない。月が傾き、窓から差し込む光の角度が変わった。それだけが時間の経過を教えてくれた。窓枠が作る光の四角形が、壁を這うように移動していく。最初は右の壁にあった光が、今は左の壁の端に届いている。何時間分の移動だろう。数えることに意味がない。時間は、ここでは止まったも同然だった。


 身体の震えは——まだ止まっていなかった。手だけではない。肩も。背中も。全身が——微かに、しかし止まることなく震え続けている。まるで身体の奥に小さな地震が起きているようだった。心臓が不規則に跳ね、筋肉が意志を離れて痙攣する。止めようとすれば余計にひどくなった。


 死にたい。


 その感情は変わらない。終わらない苦痛がある。今も——左胸の紋章が微かに発光し、鈍い痛みが全身に広がっている。灼けるような。骨の芯まで染みるような。二年間、一瞬たりとも途切れたことのない痛み。目が覚めれば痛い。歩いても痛い。息をしても痛い。椅子に座っていても、膝を抱えていても、何をしていても——常にそこにある。空気のように。影のように。


 しかし死ねば——世界が終わる。


 窓を見た。この窓は大きい。身を乗り出せば、塔の下に地面が見える。高い。ここから落ちれば——。冬の夜風が窓の隙間から吹き込み、リーリエの銀灰色の髪を揺らした。冷たい風だった。肌を刺す冷気が、一瞬だけ紋章の熱を忘れさせてくれる。


 リーリエは窓から目を逸らした。


 落ちたら。フィルが死ぬ。あの金色の目が、もう輝かない。笑って駆け回る小さな足が止まる。マリカが死ぬ。あの温かいスープを、もう作れない。台所に立つ後ろ姿が消える。リュカが死ぬ。あの軽口が、もう聞こえない。「お嬢」と呼ぶ声が、永遠に途切れる。カインが——。


 カインは死なないかもしれない。あの人は強い。数百年を生き延びた身体がある。結界が崩壊しても、生き延びるかもしれない。けれど——結界が消えた世界で、一人で。また一人で。また、数百年を。世界が終わった廃墟の中を、一人で歩く。誰もいない。声も聞こえない。朝の花茶を淹れる相手もいない。ただ、灰色の空の下を——永遠に。


 それは——カインにとって、最も残酷なことだ。


 窓からも目を逸らした。扉を見た。この扉を開けて、城を出て——。しかしどこに行っても同じだ。地の果てに逃げても、聖女の紋章は消えない。結界との繋がりは切れない。


 どこにも行けない。どこを見ても出口がない。


 生きても苦痛。死んでも破滅。前に進んでも後ろに下がっても——行き止まり。


 リーリエは椅子から立ち上がった。


 部屋の中を歩き始めた。二歩で壁にぶつかる。振り返って、二歩。また壁。狭い部屋の中を、行き来する。止まれない。座っていられない。横にもなれない。身体が落ち着かない。まるで檻の中の獣のように、意味のない往復を繰り返す。足が勝手に動いている。止まれば思考に潰される。動いていなければ——狂いそうだった。


 内側から何かが押し上げてきている。凍結の下に封じ込めた二年分の——何か。名前のつかない感情の塊。怒り。悲しみ。絶望。恐怖。虚しさ。それらが混ざり合い、渦を巻き、圧力を高めている。蓋をした鍋の中で沸騰する水のように。蓋が持ち上がりかけている。蒸気が隙間から噴き出そうとしている。


 壁に手をついた。冷たい石の壁。ざらついた表面が掌に食い込む。額を押し当てた。冷たい。石の冷気が額に染みる。けれど頭の中が熱い。額の外側は冷たく、内側は沸騰している。


 記憶が——押し寄せてきた。


 教会の祭壇。白い聖衣。大司教の穏やかな声。「あなたは選ばれたのです。神の御前に立つ崇高な犠牲です」。笑顔の司祭たち。祝福の言葉。花弁が撒かれ、鐘が鳴り——そして紋章が光った。光の中で、身体が灼け始めた。白い花弁が宙を舞い、その一枚一枚が光の粒に変わっていく。美しい光景だった。美しい光景の中で——リーリエの命が燃え始めた。


 叫んだ。あのときは——まだ叫べた。


 「痛い」と叫んだ。「助けて」と叫んだ。司祭たちは笑顔のまま、祈りの言葉を唱えていた。「崇高な犠牲」。「神の選び」。「世界のために」。聖句が壁に反響し、リーリエの叫びを覆い隠した。


 誰も助けてくれなかった。誰も苦痛を止めてくれなかった。「すぐに慣れます」と言われた。慣れなかった。二年経っても——一度も。慣れたように見えるのは、叫ぶ力すら残っていないだけだ。


 そしてこの苦痛が——一生続くのだ。逃げ場なく。終わりなく。生きている限り——死ぬまで。けれど死ねば世界が終わる。


 壁から額を離した。


 手を見た。震えている手。止まらない。止めようとしても止まらない。指を一本ずつ確認する。親指。人差し指。中指。全てが震えている。自分の手なのに、言うことを聞かない。


「止まれ」


 心の中で命じた。


 止まらない。


「止まれ」


 声に出した。小さく。掠れた声で。塔の小部屋に、自分の声が虚しく響いた。


 止まらない。


 感情の凍結が——崩れ始めている。二年間かけて築いた防壁。苦痛に耐えるために自ら凍らせた感情。それが——限界を超えた事実の重みに耐えきれず、ひび割れが広がっていく。氷に亀裂が走る音が聞こえるような気がした。ぱきり、ぱきり、と。内側から圧力をかけ続けた感情が、氷の壁を押し割ろうとしている。


 ひびの間から、感情が溢れ出そうとしている。押し返しても、押し返しても。水が堤防を越えるように。指の隙間から漏れる水のように。


 叫びたい。


 口を押さえた。唇に掌を押し当てた。自分の掌の温度すら感じない。冷たい手と、冷たい唇。


 声が——出ない。凍結が完全に解けていないから。泣くことも叫ぶこともできない。涙が出ない。声が出ない。ただ身体が震えて、呼吸が荒くなり、手が止まらない。中途半端に壊れかけた防壁が、完全に崩壊することも、元に戻ることも許さない。


 中途半端な崩壊。


 泣くことすらできない絶望は——泣ける絶望よりも深い。泣ければ楽になる。叫べば少しは軽くなる。けれど凍った涙は流れない。凍った叫びは喉を通らない。


 リーリエは床に座り込んだ。壁に背をつけ、膝を抱えた。石の床が冷たい。薄い寝間着越しに、冷気が尻から背中に這い上がってくる。身体の芯まで冷えていく。しかし紋章は熱い。左胸が灼けるように痛む。冷たさと熱さが同時に身体を攻めている。外から冷やされ、内から灼かれる。


 月が窓の外で傾いていく。星が一つ、二つと消え始める。空の端が——微かに白み始めた。


 朝が来る。


 あの朝日の下で——どんな顔をすればいいのか。カインの顔を——どう見ればいいのか。


 わからない。何も——わからない。


 リーリエは膝に顔を埋めた。震える身体を、自分の腕で抱きしめた。誰もいない塔の部屋で。一人で。寝間着の膝が涙で濡れていた——泣いているのだと、本人は気づいていなかった。凍結が完全に解けない限り、涙の自覚はない。けれど身体は——泣いていた。


 朝日が、窓の端から差し込み始めた。冬の、冷たい光。白くて鋭い光が、リーリエの銀灰色の髪を照らした。


 長い夜が——ようやく、終わろうとしていた。


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