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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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凍った心が溶けるとき

 腕の中の温もり。リーリエの銀灰色の髪がカインの胸元に散らばり、微かに花茶の匂いがした。


 カインはリーリエを抱きしめたまま、動けなかった。動きたくなかった。動きたくなかった。動いたら——この時間が終わる。この腕の中にある温もりが、消えてしまう。


 泣き疲れて眠りに落ちたリーリエが、少しずつ力を失っていく。嗚咽が遠のき、呼吸が穏やかになっていく。波が引くように、感情の嵐が去っていく。眠りに落ちかけている。外套を握る指の力が緩み——しかし完全には離れない。眠りの中でも、細い指が黒い布を掴んでいる。握る力は弱いが、離そうとしない。無意識が——縋ることを選んでいる。


「……軽いな、お前」


 呟いた。声は出していない。唇が動いただけだ。息遣いとも区別がつかないほどの、微かな言葉。


 腕の中のリーリエは——恐ろしく軽かった。十七歳の少女の身体が、これほど軽いはずがない。命が結界の燃料として消費され続けた身体。骨の一本一本が細く、肉が薄い。抱き上げれば片腕で支えられそうなほど。肩の骨が外套越しに触れる。肋骨の輪郭が背中に感じられる。人間の身体がこれほど薄くなれるものかと——五百年を生きたカインですら、こんな軽さは知らなかった。


 この軽さは——失われた命の重さだ。


 腕の中でリーリエの銀灰色の髪が、カインの外套の上に広がっていた。朝の光がまだ弱い時間。窓から差し込む薄明の光が、髪を淡い紫に染めている。細い糸のような髪。触れれば切れそうなほど繊細で、それでいて——美しかった。カインの黒い外套の上に広がる銀灰色の髪は、夜空に漂う星雲のようだった。


 髪から、微かな香りがした。花茶の名残りだろうか。あるいはマリカが部屋に飾った花の移り香か。甘く、優しい匂い。戦場の血と鉄と火薬の匂いしか知らなかった五百年の記憶の中に、この匂いは異質だった。柔らかすぎた。繊細すぎた。壊してはいけない種類の匂いだった。


 カインの思考が——静かに、深い場所へ沈んでいった。水底に降りていくように。光が届かない深い場所へ。


 普通の人間に戻れたら。


 ふと、その言葉が浮かんだ。唐突に。脈絡なく。けれど——切実に。胸の奥の、蓋をしていた場所から、不意に湧き出してきた。


 聖騎士でもなく。魔王でもなく。五百年の記憶も、聖なる炉の残滓による超常的な力も持たない。ただの——人間。普通の人間として生まれて、普通に歳を取り、普通に老いて、普通に死ぬ。朝起きて、茶を淹れて、隣の人の顔を見て、「おはよう」と言う。そういう人間に戻れたなら。


 この手で——この人を。


 思考が途切れた。その先を——考えることを、五百年の防壁が拒んでいる。


 カインは自分の感情を覗き込み——そして、蓋をした。重い蓋を。鉄の蓋を。錠前をかけて、鍵を呑み込むように。


 贖罪の延長だ。初代聖女を救えなかった罪を、リーリエを救うことで償おうとしている。それだけだ。今の感情は——贖罪の延長に過ぎない。五百年前の後悔が、形を変えて現れているだけだ。初代聖女への罪悪感が、目の前の聖女に投影されているだけだ。


 しかし胸の奥で——その言い聞かせが嘘であることを、薄々知っていた。


 贖罪なら、こんなに胸が痛まない。「お前のために」と言ったとき、喉の奥が焼けるような感覚は——贖罪の感情ではない。初代聖女への罪悪感とは質が違う。罪悪感は冷たい。後悔は重い。けれど今、胸を焼いているものは——もっと鋭く、もっと温かい。もっと——怖い。


 名前をつけたくない。腕の中のリーリエの体温が、外套越しに伝わっている。名前をつけたら——認めたことになる。認めたら——抱えきれなくなる。五百年の孤独が、名前のない感情の重さで崩壊する。崩壊したら——もう、贖罪という支柱では立っていられなくなる。


 リーリエの寝息が聞こえた。規則的な、穏やかな呼吸。泣き疲れた身体が、ようやく安息を見つけたかのような。吸って、吐いて。その音が、書斎の沈黙の中で——不思議なほど心地よかった。


 五百年の歳月を、思った。


 追放された日から今日まで。世界中を放浪した。古代の文献を集め、聖なる炉の構造を解析し、聖女を犠牲にしない方法を探し続けた。一人で。ひたすら一人で。宿を転々とし、廃墟を探り、禁書を紐解いた。雨の日も、雪の日も、砂漠の灼熱の中でも。止まることは許されなかった。止まれば——後悔に押し潰される。


 途方もない歳月だった。人間の一生が何度も過ぎ去るのを見た。出会った人々が老い、死んでいく。次の世代が生まれ、育ち、老い、また死ぬ。自分だけが取り残される。名前を覚えることをやめた時期がある。顔を覚えることをやめた時期がある。関わっても——いずれ失う。砂の城のように。波が来れば消える。


 疲れた。


 リーリエと同じ言葉が、カインの中にも浮かんだ。


「疲れた」——しかし意味が違う。リーリエの「疲れた」は苦痛への疲弊だ。カインの「疲れた」は——孤独への疲弊だった。五百年間、誰かの隣にいたかった。誰かと朝の茶を飲みたかった。誰かに「おはよう」と言って、「ああ」と返したかった。ただそれだけのことが——五百年間、叶わなかった。


 リュカがいた。ヴェルナーがいた。マリカがいた。フィルがいた。彼らは確かに傍にいてくれた。けれどカインの「疲れ」を——五百年分の孤独を、溶かすには至らなかった。彼らは友であり、家族であった。けれどカインの胸の奥にある氷は——もっと深い場所にあった。


 リーリエが来て——変わった。


 何が変わったのか。カインにはまだ言語化できない。ただ朝の茶を淹れる時間が——嫌ではなくなった。リーリエの「ありがとうございます」を聞くと、胸の奥が微かに温かくなった。リーリエの寝顔を見ると——五百年分の孤独が、一瞬だけ溶ける気がした。氷が薄くなる。光が透ける。ほんの一瞬だけ。


 普通の人間に戻れたら。


 もう一度、その言葉が浮かんだ。普通の人間として。同じ速さで歳を取り、同じ時間を生きて。この人の隣に——。


 カインは目を閉じた。


 それは叶わない願いだ。自分は五百年を生きた異形だ。人間ではない。聖なる炉の残滓に変質した身体。普通の寿命はもう持たない。リーリエと同じ時間を——生きることはできない。


 だから。この感情は贖罪だ。そうでなければならない。


 ——そう言い聞かせて、カインはリーリエの髪を見つめた。銀灰色の髪が、外套の上に広がっている。淡い紫の光を帯びて。


 嘘だと——知りながら。


 銀灰色の髪が外套の上に広がっている。淡い紫の光を帯びて。五百年前の金色の髪とは違う。この人は——あの人ではない。この人は、リーリエだ。


 その当たり前のことが、今は——途方もなく重い。


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