最後の聖女
一人だった。
リーリエは自室に戻らなかった。廊下を歩き、階段を上り、城の最上部にある小さな塔の部屋にたどり着いた。普段は使われていない部屋だ。埃っぽく、家具は古い椅子が一脚だけ。しかし窓が大きく、月がよく見えた。
椅子に座った。木が軋んだ。冷たい。座面が冷えている。この部屋には暖炉もなく、冬の夜気がそのまま入り込んでいる。吐く息が白い。
窓の外に、月が浮かんでいた。冷たく白い。何の感情もない光で、世界を照らしている。
カインの言葉を、反芻した。
最後の聖女。適性者は、もう生まれない。お前が死ねば——世界が終わる。
一つ一つの言葉が、石のように胸に積もっていく。重い。けれど痛くはない。痛みを感じる余裕がない。大きすぎる事実の前で、感情が処理を放棄している。防壁が——最後の力で、感情を押さえ込んでいる。
リーリエは月を見つめた。
整理しよう。いつもそうしてきた。感情で処理できないものは、理性で整理する。教会で学んだ方法だ。事実を並べ、論理を組み、結論を導く。そうすれば——少なくとも、何が起きているかは理解できる。
事実一。私は聖女だ。命を燃料に、世界の結界を維持している。
事実二。私は最後の聖女だ。私の後に、適性者は生まれない。
事実三。私が死ねば、炉の火は消える。結界が崩壊し、世界が終わる。
結論。
リーリエは膝を抱えた。椅子の上で、小さく丸くなった。冬の夜気が肌を刺す。聖女の紋章が左胸で微かに光っている。いつもの鈍痛が、全身を灼いている。一瞬たりとも休まらない痛み。
死にたい。ずっとそう思ってきた。終わらない苦痛。全身を灼く鈍痛。一日も、一瞬も途切れたことがない。教会で二年間、この城で数ヶ月。合わせて二年以上。
死ねば楽になれる。それが——唯一の希望だった。今日を耐えられるのは、「いつか終わる」と思えるから。苦痛の向こうに「無」がある。何も感じない、何も痛くない、永遠の静寂がある。それが——最後の砦だった。
その砦が——崩れた。
死んでも楽にはなれない。
死ねば——世界を道連れにする。何千、何万の人が死ぬ。結界が消えれば、災厄が世界を覆う。カインが。リュカが。マリカが。フィルが。この城の人たちが。街の人たちが。何も知らない子供たちが。全て——私が死ぬことで、終わる。
リーリエの手が、膝を抱える力を強めた。爪が布越しに肌に食い込む。
生きても苦痛。死んでも破滅。
逃げ場が——ない。
まるで——箱の中に閉じ込められたようだった。上も下も右も左も壁。押しても引いても開かない。叫んでも誰にも届かない。壁の向こうに世界がある。自分がこの箱を壊せば、その世界も壊れる。だから壊せない。けれど箱の中は——苦しい。息ができない。
「……つまり、死んでも楽にはなれない、ということですね」
声に出した。独白ではない。自分自身に確認するために。この事実を——音にして、空気に刻んで、確定させるために。曖昧にしておけない。
言葉が塔の小部屋に響いた。石壁に反射して、小さくこだまして、消えた。そして沈黙が戻った。
月明かりだけが、リーリエを照らしている。
手を見下ろした。膝の上で握られた手。白い。細い。力のない手。この手で——世界を支えている。支えさせられている。望んでもいないのに。
泣けなかった。
泣くほどの感情がまだ表に出てきていない。凍結した防壁が——最後の力を振り絞って、感情を押し込めている。壊れないように。壊れたら、もう戻れないから。二年間、この防壁に守られてきた。痛みを感じないように。悲しまないように。怒らないように。全てを遮断して、ただ息をしてきた。
けれど防壁に——ひびが入っている。
小さな、しかし確かなひび。カインの言葉が一つ落ちるたびに広がったひび。「最後の適性者」で一本。「世界が終わる」で一本。「最初から知っていた」で——もう一本。
ひびの間から、何かが滲み出そうとしている。凍結の下に押し込めていた何か。二年間溜め続けた何か。それが——ひびの隙間から、少しずつ、少しずつ。
リーリエは月を見上げた。
冷たい月。何の感情もない光。あの月のようになりたかった。何も感じず、ただ照らすだけの存在に。
けれど月は——自分で光っているわけではない。太陽の光を反射しているだけだ。自分の光を持たない。
私と同じだ。
自分の命も、自分のものではなかった。教会のもの。世界のもの。結界の燃料。人柱。
そして——死すらも、自分のものではない。
リーリエの手が——震え始めた。止めようとした。止まらない。膝を抱える手が、小刻みに震えている。冬の寒さのせいではない。身体の奥から来る震え。
まだ泣けない。まだ叫べない。けれど身体が——限界を示している。
今夜は眠れないだろう。
死にたい。その感情は消えていない。今も——胸の奥にある。けれど「死ねば楽になれる」という言葉は、もう使えない。死んでも楽にはならない。死ねば世界が終わる。何百万の人が死ぬ。自分一人の楽のために、世界を道連れにする——そんな権利は、聖女にはない。
では生きるのか。苦痛に耐え続けて。結界に命を吸われ続けて。三年か四年か、その先にある「ゼロ」に向かって、ゆっくりと消えていく。それが「生きる」なのか。
生きることも、死ぬことも——どちらも地獄だ。
逃げ場がない。
リーリエは膝の間に顔を埋めた。髪が垂れ下がり、月明かりを遮る。暗い。自分の作った小さな暗闇の中に、蹲っている。教会にいた頃を思い出した。祈りの間で蹲っていた自分を。あのときは——感情が凍結していたから、こんなに辛くなかった。凍っていれば、痛みは感じない。今は——凍結が溶けかけている。感情が戻りかけている。だから辛い。カインのおかげで温もりを知った分だけ、冷たさが身に沁みる。
皮肉だ。温かさを知ったことで、苦しみが増した。
けれど——温かさを知る前に戻りたいとは、思わなかった。あの空虚な日々に戻りたいとは。たとえ苦しくても——「温かい」と感じられる今のほうが、何も感じなかった頃よりも。
その矛盾が——リーリエの中で渦を巻いている。
リーリエは椅子の上で膝を抱え、月を見つめ続けた。震える手を止められないまま。泣けないまま。叫べないまま。
窓から見える月が、ゆっくりと傾いていく。夜が更けていく。冷たい空気がリーリエの身体を包んでいる。紋章が微かに光っている。今も、命が消耗されている。一秒ごとに。
朝が来るのを、ただ待った。カインが茶を持ってくる朝を。「飲め」と言ってくれる朝を。その一言を——待っている自分がいることに、リーリエは気づいていた。




