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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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終わりの意味

 沈黙が長い。


 月明かりの部屋で、二人が向かい合っている。リーリエは椅子に座ったまま。カインは立ったまま。その間を、白い光だけが繋いでいる。月の光は冷たく、柔らかく、嘘のように穏やかだった。こんな穏やかな光の中で、こんなに残酷な話がされているとは——月も知らないだろう。


 カインが言葉を探している。リーリエにはわかった。次に来る言葉が——重いのだ。これまでの全てよりも。カインの喉仏が動いた。唾を飲み込む動作。五百年を生きた魔王が、言葉を飲み込んでは吐き出しかけ、また飲み込んでいる。


 二十三人の聖女。適性者の発現間隔の加速的な増大。炉の劣化。そして——リーリエが「最後」であるという事実。これらの断片が、一つの結論を指している。リーリエの頭の中で、論理が静かに組み上がっていく。教会で学んだ知識が、皮肉にも今、自分の運命を読み解く道具になっている。推論の筋道は明瞭だった。前提から結論まで、迷いなく一本の線が引ける。


「お前が死ねば」


 カインの声が——低い。地の底から響くような声だった。声帯が軋んでいるのが、リーリエにも聞き取れた。


「炉の火は消える。聖なる炉を維持する燃料がなくなる。次の適性者は——生まれない」


 一語ずつ。慎重に。リーリエの反応を確かめながら。まるで——刃物を渡すように。受け取る側が怪我をしないよう、持ち手のほうを差し出している。刃が自分の掌を切っていても構わないかのように。カインの声は——自分を犠牲にしながら真実を差し出す声だった。


「結界が崩壊し——」


「世界が、終わる」


 リーリエが言った。


 カインの言葉を遮ったのではない。先を——言い当てた。静かに、淡々と。まるで数式の答えを読み上げるように。論理的帰結として、それ以外の答えがなかったから。最後の聖女。次がいない。死ねば炉が消える。結界が崩壊する。世界が——終わる。三段論法のように、簡潔に、残酷に、正確に。


 カインが頷いた。


「ああ」


 部屋に沈黙が戻った。


 月明かりが床に白い四角を落としている。窓枠の影が、格子のように床を区切っている。窓の外で風が吹き、木の葉が擦れる音がした。枯れた葉が最後の一枚を落とすような、かさかさという音。遠くで夜鳥が一声鳴いた。その鳴き声が消えた後は——何も聞こえない。世界が息を止めたような静寂。


 リーリエは動かなかった。椅子に座ったまま、膝の上で手を組んだまま。表情は——読めない。怒りでも悲しみでもない。何もない。凍結した感情が、あまりに大きな衝撃を前にして反応することを放棄している。防壁が最後の力を振り絞って、感情の津波を堰き止めている。


 あるいは——反応する前に、理性が先に動いているのかもしれない。リーリエの知性は、感情よりも速い。事実を受け止め、分析し、意味を抽出する——その処理が、感情が追いつく前に完了してしまう。


「……あの日」


 リーリエが口を開いた。声は平坦だった。教会で神学を学んでいた頃の、問答の声に似ていた。教師の質問に答える声。正解を述べる声。感情を排した、知性だけの声。


「あなたが、崖で私を拾った日」


「ああ」


「あなたは言いましたね。『お前が死ぬと世界が終わる。だから俺の隣にいろ』と」


 全ての始まり。崖から身を投げたリーリエを、カインが拾った。あの日の言葉。あの日の——約束。リーリエの銀灰色の髪が月の光に照らされて揺れた。あの崖の日も、月が出ていたのだろうか。記憶にない。あの日は——何も見えなかった。何も感じなかった。


 カインの拳が、傍らで握りしめられた。指の関節が白くなるほど強く。革の手袋の下で、爪が掌に食い込んでいるはずだ。


「あの言葉は——比喩ではなかったのですね」


「……ああ。最初から——文字通りの意味だった」


「最初から」


 リーリエの声から——温度が消えた。淡々としている。しかしその淡々さは、穏やかさではない。感情が追いついていないだけだ。あまりにも大きな事実を前にして、心が——まだ動けていない。巨大な岩が落ちてきたとき、痛みを感じる前に身体が麻痺するように。


「最初から知っていたのですね。私が最後の聖女だと。私が死ねば世界が終わると。崖で私を拾ったときから——ずっと」


「ああ」


 カインの声は短い。弁解しない。言い訳しない。事実だけを、一語で肯定する。「守りたかった」とも「傷つけたくなかった」とも言わない。それは——今ここでは、言い訳に聞こえるとわかっているから。五百年の歳月が教えた、最も重要な教訓。言い訳は傷を深くする。


 リーリエは窓の外を見た。月が空に浮かんでいる。冷たく白い月。あの月を何度見ただろう。教会の祭壇の小窓から、眠れない夜に見上げた。痛みに耐えながら、涙が出ない目で。魔王城の部屋の窓から、星の名前を覚えた夜に見た。カインの指が星を示すのを、横で眺めながら。同じ月を見て——違うことを考えていた。


 あの頃は「死にたい」と思いながら月を見ていた。


 今は——何を思えばいいのだろう。


「……少し、一人にさせてください」


 リーリエが立ち上がった。声は静かだった。震えていない。怒っていない。泣いていない。ただ——何も感じていないかのように、平坦だった。嵐の前の凪のように。海が引く直前の、不気味な静けさのように。


 カインが何か言いかけた。引き止めようとする気配があった。口が開きかけて——止まった。追いかけたい。追いかけて、もう一度抱きしめて、「大丈夫だ」と言いたい。しかし——今それをすれば、リーリエの意思を踏みにじることになる。五百年前、同じ場面で追いかけた。結果を——知っている。


「ああ」


 一言だけ答えた。その一語に、どれだけの感情を押し殺したか。カインだけが知っている。


 リーリエが部屋を出ていく。扉が静かに閉まる。蝶番が微かに軋んだ。足音が廊下を遠ざかっていく。軽い足音。しかし——いつもよりも遅い。一歩一歩が重い。足取りに、真実の重さが乗っている。


 カインは動けなかった。


 リーリエの背中を見送ったまま、閉じた扉を見つめていた。あの細い背中。最後の希望を奪われたばかりの少女の、華奢な背中が——廊下の闇に消えていった。追いかけたい。追いかけたい。その衝動が全身を揺さぶっていた。けれど足は動かない。動かさない。今は——リーリエの意志を尊重する。


 月明かりが窓から差し込んでいる。リーリエが座っていた椅子に、カインは歩み寄った。手を置いた。座面に、まだリーリエの温もりが微かに残っている。


 冷たかった。


 いや——もう温もりは残っていなかった。気のせいだった。椅子は冷たい木の塊に戻っていた。


 リーリエがいた痕跡は——もう、消えている。


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