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北京の深淵と、老子の無為自然

6月5日、大幅にブラッシュアップ(加筆・修正)いたしました。

キャラクターの心情や設定をより深く掘り下げていますので、初見の方も、再読の方も楽しんでいただければ幸いです!

北京の探索者ギルド支部は、帝都のあの華やかな賑わいとは対照的に、どこか肌を刺すような重苦しい空気が街全体に漂っていた。

香山での古龍討伐の報告を無事に済ませ、ひとまず拠点となる宿を確保した私たちは、情報収集を兼ねて北京の市街を散策することにした。


「ねぇリーファス、待ってよぉ! 北京は人が多すぎてボク、迷子になっちゃいそうだから……ほら、優しく手を繋いでてほしいな?」


西施せいしが甘えた声を出しながら、私の服の袖をきゅっと引いてくる。隣で虎王が「師匠の精神統一の邪魔をするな!」と真面目な顔で嗜めているが、当の西施せいしはどこ吹く風で私の腕に身体を寄せていた。


「……賑やかというよりは、少し殺気立っているわね」


周囲の様子を油断なく観察していたディードリットが、細い眉をひそめて呟く。

確かにディードリットの言う通り、行き交う人々の目はどこか虚ろで生気がなく、薄暗い路地裏からは何かが腐敗したような、嫌な臭いがうっすらと漂っていた。


その時だった。


「ギャァァァァァッ! 殺してやる! 全員ぶち殺してやるんだぁぁぁ!!」


「狂乱」の叫び声を上げながら、一人の男がギラリと光る包丁を振り回し、群衆の中に飛び出してきた。周囲は一瞬にしてパニックに陥り、逃げ惑う人々で悲鳴が溢れかえる。


「あぶなーい! リーファス、あの人、なんだか目つきがおかしいよぉ!」


西施せいしが素早く私の背中へと隠れる。私は平然と一歩前へと出ると、狂乱した男が激しく振り下ろした包丁の凶悪な軌道に対し、そっと優しく手を添えた。


「――静かにして。少し眠るといい」


純粋な霊力を通わせた指先で、男の腕の経絡を軽くトントンと突く。それだけで、男はまるで糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちるようにして意識を失った。


「……これは、ただの狂乱じゃないね」


私は崩れ落ちた男の首筋から立ち昇る、極めて薄い、だが濃厚に邪悪な『マナ』の気配を敏感に察知した。それはアヘンのような粗悪な薬物の臭いと、魔族特有の禍々しい気配が混ざり合った、吐き気を催すような特異な異臭だった。


「クリス、この男が持っていた薬物の出どころを追えるかい?」

「はい、リーファス様。衣服に染み付いた、影に潜む残留思念を辿ります。……見えました。この先の地下街、廃墟となった古い廟の跡地に繋がっています」


クリスが自身の影の中からスッと音もなく戻り、冷徹な瞳で淡々と報告する。


「そこが、アヘン窟を隠れ蓑にした魔族の苗床、というわけだね」


◇◇◇◇◇


クリスに案内されたアジトへと足を踏み込むと、そこは文字通りの地獄そのものだった。

怪しげな薬物によって精神をズタズタに破壊された人々が、おぞましい魔法陣の上に並べられている。上級魔族の因子を強制的に体内に埋め込まれ、その肉体が異形へと変貌しつつあった。


「誰だ、俺のシマをコソコソと荒らすガキどもは……!」


奥の暗闇から現れたのは、巨大な獅子の獣人の男だった。その周囲に放つ威圧感は凄まじく、並の探索者であれば対峙しただけで膝をつくレベルだ。


「虎王兄様、あの人……獣人なのに、なんだかボクたちの知ってる気配と全然違うよぉ、すごく気持ち悪いな……」

西施せいしが野生の本能的な嫌悪感をあらわにする。


「……無駄な化けの皮が完全に剥がれているよ、魔族の兄さん」


私が冷たく言い放つと、獅子獣人の男はニタリと下卑た笑みを浮かべ、その姿をドロドロと変貌させた。肉体がどす黒く膨れ上がり、背中から漆黒の翼が生え、頭部にはねじれた醜い角が突き出す。


「ヒャッハハハ! バレたか! だがなぁ、この『魔人融合』が完全に完成すれば、この国は内側から俺たち魔族の楽園になるんだよ!!」


「……世界の理に背くような歪んだ真似は、ここで私が終わらせてあげるよ」


私は静かに胸の前で印を組んだ。

無辜の人々を巻き込むこの不自然極まる光景は、私の内側にある静かな怒りを呼び覚ますには十分だった。


「――道は常に無為にして、しかもなさざるなし。万物、自ずから化せん」


――【英霊降臨:老子ろうし


その瞬間、私の周囲の空気の重圧が完全に消失した。

美しい銀髪がふわりと無重力のように浮き上がり、私の存在そのものが、確かにそこに在るようでいて、同時に宇宙の深淵そのものに溶け込んでいるかのような、絶対的な「虚無」へと変貌する。


「な、なんだ……!? 威圧感が、全くねぇ……!? なのに、どうして一歩も前に近づけねぇんだ……!」


魔族と化したボスが猛然と私めがけて襲い掛かる。その鋭い爪は空間そのものを引き裂くほどの威力があったが、私はただ、自然に、風に身を任せるようにしてその場に佇んだ。


無為自然むいじねん』――。


凶悪な爪が直撃するその寸前、私の身体はまるで流れる水のように形を変え、魔族の突進を完全に透かした。いや、透かしたというより、魔族の攻撃が、最初から存在しない虚空の場所を勝手に通り抜けているように見えたはずだ。


「――そこだよ」


私はすれ違いざま、指一本で魔族の額にそっと触れただけだった。

だが、その刹那、私を通じて流し込まれた「無」の霊力が、魔族の体内で暴走していた不浄な魔力と激しく衝突し、内側からその存在そのものを綺麗に霧散させていく。


「ア……ガ、は……!? 俺の魔力が、消えて……消滅していく……っ!?」


魔族のボスは断末魔の叫びを上げる暇すらなく、そのままサラサラとした塵となって虚空へと消滅した。


「……ふぅ。これでひとまずは片付いたね」


英霊降臨を静かに解き、私は深く息を吐いた。

私の背後では、その圧倒的な光景を目撃した仲間たちが、完全に言葉を失っている。


「……今のは、戦いですらありませんでした。リーファス様が動いたのではなく、世界そのものが敵を自動的に排除したかのような……」


クリスが深い畏怖を込めてぽつりと呟く。


「もうっ! リーファス、格好いいのはいいけど、ボクのこと置いてけぼりにしないでよぉ! 今の、本物の神様みたいでちょっと怖かったんだからねっ!」


西施せいしが少し涙目になりながら猛烈な勢いで駆け寄ってきて、私の腰にぎゅっとしがみついた。


「師匠……。力を使わずして、相手を完璧に制する。究極の武の極致、本日も素晴らしいものを拝見いたしました!」


虎王もまた、深く頭を下げ、その燃えるような瞳にさらなる決意の光を宿している。


「さあ、残された人々を早く救出しよう。ギルドに連絡して、この場所の解体と人々の保護を進めさせるよ」


私たちはアヘン窟の深い闇を綺麗に払い、再び北京の街へと歩き出した。だが、私の胸中には、あの魔神の欠片がこれほどまでに人間社会の深部を蝕んでいることへの危惧が、静かに渦巻いているのだった。


本日もお読みいただきありがとうございます!

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