ユグドラシルの大樹と蝕む瘴気
5月28日、大幅にブラッシュアップ(加筆・修正)いたしました。
キャラクターの心情や設定をより深く掘り下げていますので、初見の方も、再読の方も楽しんでいただければ幸いです!
無菌室の展開を解き、リーファスが額の汗を拭うと、ベッドの上で静かに眠るアリスの顔には、先ほどまでの死相が嘘のように消え去っていた。
「アリス……! おお、神よ……!」
『絶剣』の二つ名で知られ、普段は氷のように冷静なディードリットが、なりふり構わず妹にすがりついて号泣している。その背後で、クリスがそっとリーファスにハンカチを差し出した。
「ご主人様、お疲れ様でございました。さすがの御業です」
「ああ、ありがとうクリス。ジョゼフ殿の力とはいえ、魔力を使わない物理的な切除は骨が折れるな」
精神年齢55歳+実年齢のリーファスは、老成したため息を一つ吐き、椅子に腰を下ろした。
やがて落ち着きを取り戻したディードリットが、深々と床に膝をつき、頭を垂れる。
「リーファス殿……いや、我が主。この御恩は一生忘れません。私の剣は、これよりあなたの為だけに振るいましょう」
「頭を上げてくれ、ディード。身内を助けたいと思うのは当然の事だ。それよりも……」
リーファスの碧眼が、鋭い光を帯びる。
「問題は、なぜ森の奥深く、清浄であるはずのエルフの里で、彼女が『魔力癌』などという厄介な病に侵されたか、だ」
その言葉に、目を覚ましたばかりのアリスが、弱々しい声で口を開いた。
「……大樹様が、泣いておられました」
アリスは、エルフの守り神である「ユグドラシルの大樹」に仕える巫女だった。
彼女の口から語られた事実は、凄惨なものだった。数週間前、侍従たちを連れて大樹の根元へ祈祷に向かった際、突如として地面が陥没し、巨大な縦穴が現れたというのだ。
「落ちた先には……見たこともない地下迷宮ダンジョンが広がっていました。そして、そこは息をするのも苦しいほどの、黒く淀んだ『瘴気』で満たされていたのです」
アリスは震える両手で毛布を握りしめる。
「侍従たちは、私を地上へ逃がすために結界を張り、瘴気の底へと沈んでいきました。私だけが助かり……そして、あの方々は皆、私と同じ病に倒れ、亡くなったと聞きました……」
涙をこぼすアリスの言葉に、部屋の空気が重く沈む。ディードリットはギリッと唇を噛み締め、腰の剣の柄を強く握りしめた。エルフの聖地を穢し、同胞を死に追いやった存在への静かな、しかし激しい怒りだ。
「黒く淀んだ瘴気、か」
リーファスは顎に手を当て、口角をわずかに上げた。その顔は、15歳の少年のものでありながら、百戦錬磨の退魔師が獲物を見つけた時のそれだった。
「ご主人様。それは、もしや……」
クリスが黒い瞳を瞬かせて尋ねる。
「ああ。前世の言葉で言えば『悪霊の巣食う魔溜まり』……極上の霊力エサ場だな」
魔力が蔓延るこの世界において、これほど濃厚な瘴気が発生している場所があるとは。エルフの侍従たちを死に至らしめたその悪意の塊は、リーファスの『魔霊反転』にとって、莫大な力を生み出す最高の霊力源に他ならなかった。
リーファスはロングコートを翻し、立ち上がった。
「ディード、案内してもらうぞ。大樹の根元へ」
「……行くのですか? あの瘴気は、触れるだけで魔力回路を暴走させる猛毒です。Aランクの探索者であっても……」
「私は魔術師じゃない。『魔』を祓う陰陽師だ。それに――」
リーファスは、腰に帯びた和泉守藤原兼重の柄を軽く叩いた。
「私の可愛いクリスと、新しい剣ディードの身内を傷つけた連中を、そのままにしておく趣味はない」
「……っ!」
ディードリットの瞳に強い光が宿り、クリスは嬉しそうに頬を染めてメイド服の裾を翻した。
「参りましょう、ご主人様。不遜な魔物どもを、空間ごと切り刻んで差し上げます」
「私の剣も、共にあります」
かくして、異端の陰陽師リーファスと、闇の魔術師クリス、そしてSランクのエルフの剣士ディードリットの三人は、聖なる大樹の足元にポッカリと口を開けた、死と瘴気のダンジョンへと足を踏み入れるのだった。
◇◇◇◇◇
エルフの里の中心にそびえ立つ、天を突くほどに巨大なユグドラシルの大樹。だが、かつて神聖な緑の輝きを放っていたその威容は消え失せ、根元にぽっかりと開いた巨大な陥没穴からは、ドス黒い瘴気がドロドロとした間欠泉のように噴き出していた。
「……酷い有様だ。結界の補助なしでは、近づくことすらままならない……っ」
ディードリットは顔をしかめ、手で口元を覆った。Sランク探索者である彼女の強大な魔力をもってしても、この空間を満たす高濃度の「魔力癌」の原因物質たる瘴気は、肌をチクチクと刺すような痛みを伴う。
「ご主人様、空間を捻じ曲げて瘴気の軌道を変えましょうか? 触れるだけでも不愉快極まりない汚物です」
クリスが細い指先に真っ黒な魔力光を灯し、メイド服の裾を小さく揺らして提案する。闇魔術の使い手である彼女は多少の耐性があるようだが、それでもその表情は険しい。
しかし、リーファスだけは違った。その薄い唇を不敵に吊り上げ、まるで極上のご馳走を前にした子供のような、獰猛な笑みを浮かべていた。
「いや、必要ない。クリス、ディード、私の背後から一歩も離れるなよ」
リーファスは軍服風のコートを激しく翻し、噴き出す黒い瘴気の真正面へと一歩を踏み出す。
「こんな純度の高い『エサ』を前にして、避けて通るなど陰陽師の名折れだ」
リーファスが胸の前で素早く印を結び、深く、静かに息を吸い込んだ。
――『魔霊反転』。
次の瞬間、周囲の空間を重苦しく支配していたドス黒い瘴気が、引き絞られた暴風のごとき凄まじい勢いで渦を巻き、リーファスの小柄な身体へと一気に吸い込まれ始めた。
「なっ……!? リーファス殿、何を考えている! それは触れるだけで五臓六腑を腐らせる猛毒だぞ!」
ディードリットが悲鳴のような制止の声を上げる。だが、リーファスの銀色の長髪は、内側から溢れ出す淡い蒼光を放ちながらふわりと夜風に舞う。常人にとっては一吸いで肉体を蝕む死の毒。しかし、この世界の『魔』を前世の『陰の気』へと変換して祓う彼にとっては、自らの霊力を一気に爆上げするための、この上ない純粋なエネルギー源でしかなかった。
「ふぅ……。悪くない味だ。前世の薄汚れた人間の怨念より、よっぽど純度が高くて瑞々しい」
55年の修羅場を越えてきた男の、深みのある余裕を崩さぬ声。リーファスが小さく息を吐き出すと、彼の周囲十メートルにわたって、あれほど濃密だった瘴気が完全に消滅し、清涼な空気が満ちる『絶対清浄空間』が瞬時に出来上がっていた。
「さ、さすがはご主人様……! 毒すらも糧になさるなんて、そのお姿、あまりにも神々しいです……!」
クリスがうっとりとした目で両手を組み、頬を赤らめる。ディードリットは、世界の常識を根底から粉砕していくその光景に、ただ顎を戦慄かせることしかできなかった。
「行くぞ。案内を頼む」
漆黒の闇が広がる地下へと、迷いなく飛び降りる三人。
待ち受けていたのは、瘴気に当てられて理性を失い、おぞましい姿へと変貌した魔物たちの群れだった。しかし、三人の進撃を止める壁にはなり得ない。
「道を空けなさい、汚物ども!」
クリスの空間魔法が容赦なく炸裂する。迫り来る巨大なトレント(魔樹)たちの巨躯が、空間の断層ごとズレるように、音もなく真っ二つに切断されていく。
「はぁっ!」
間髪入れず、ディードリットの『絶剣』が閃く。音を置き去りにした超神速の斬撃が、空間を埋め尽くしていた魔物たちを一瞬で塵へと変えていった。
そして最下層――。
息を呑むほど巨大な地下空洞へと辿り着いた三人の前に、元凶がその巨体を現した。
それは、何百年分もの怨念と瘴気が凝縮して生命を得た、おぞましき「泥の悪魔」。そしてその足元には、ドロドロとした泥にまみれ、無残にもアンデッドとして操られているアリスの侍従たちの姿があった。変わり果てた同胞の姿。
「おのれ……! よくも私の同胞を、そんな姿に……っ!」
ディードリットが怒りに身体を震わせ、剣を構えて飛び出そうとした瞬間――リーファスがその細い肩をガシッと力強く掴んで引き留めた。
「待て。今のあいつらを物理的に斬れば、魂まで瘴気に喰われて完全に消滅する。……ここは、私の専門分野だ」
リーファスは、ディードリットの前に静かに一歩進み出た。
道中で吸い上げた莫大な瘴気は、すでに彼の体内で『魔霊反転』を終え、規格外の純粋な霊力となって熱く滾っている。
「救国の聖女殿。あなたの旗の下に、迷える魂を救う光を集え」
――『英霊降臨』。
リーファスの右手に、神聖な神気を放つ純白の『聖旗』が具現化した。かつてフランスを救い、民の心を一つにした奇跡の乙女――ジャンヌ・ダルクの象徴。
リーファスが聖旗の石突きをドンッと力強く地に叩きつけると、ドス黒い空間がまばゆい黄金の光に包まれ、その光の中から無数の『光人』たちが召喚された。
「行け。彼らの魂を、邪悪な呪縛から解き放て」
リーファスの静かな号令。
光人たちは、泥の悪魔ではなく、苦悶の声を漏らしながら佇むエルフのアンデッドたちへと真っ直ぐに向かっていく。その歩みの中で、のっぺりとしていた光の輪郭が、次第に明確な形を結び始めた。
それは、アンデッドとなってしまった侍従たちそれぞれの――既にこの世を去った、懐かしい友人や親類縁者の姿だった。
「あ……母様……」「兄さん……どうして、ここに……?」
邪悪な瘴気に縛られ、ただ破壊の衝動に突き動かされていたアンデッドたちの動きが、ピタリと止まる。
かつて愛した者たちの姿をとった光人たちは、武器を持たぬ優しい手で、泥に塗れた彼らをそっと包み込むように、慈愛に満ちた抱擁を与えた。
触れ合った端から、魂を縛っていたドス黒い瘴気がシュルシュルと音を立てて浄化されていく。エルフたちは呪縛から解き放たれ、本来の安らかな顔を取り戻すと、迎えに来てくれた懐かしい者たちの身体を、涙を流しながら抱き返した。
そして、生者と死者の魂は美しく溶け合うように、共に寄り添いながら、無数のまばゆい光の粒子となって天へと昇っていく。
「……あぁ、みんな……よかった、本当によかった……」
ディードリットの碧眼から、安堵と鎮魂の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「ギィィィィィィッ!!」
大切な獲物(魂)を全て奪われた泥の悪魔が、怒り狂って空間を揺るがし、無数の巨大な触手の雨を頭上から降らせてくる。
「さて、お次は……本体のお片付けだ」
リーファスは手の中の聖旗を光の霧へと消し去り、右手を力強く虚空へと伸ばした。
「魔力に頼りきったデカブツには、決して折れぬ『聖剣』の真の輝きを教えてやる」
眩い霊力の奔流の中から引き抜かれたのは、黄金の護拳と、圧倒的な神気を纏う美しき両刃の剣。シャルルマーニュ十二勇士の筆頭、聖騎士ローランが戴いた不滅の絶剣『デュランダル』。
「――穿て、不滅の極光」
リーファスは、体内に貯蔵された特大の反転霊力を、惜しげもなくデュランダルの刀身へと注ぎ込む。キィィィンと空間を震わせる駆動音と共に、剣から放たれる光の刃は、広大な地下ダンジョンの天井を突き破らんばかりに巨大に膨れ上がった。
降り注ぐ触手の雨ごと、リーファスはその巨大な光の質量を、無造作に、しかし一撃のもとに一閃した。
ズバァァァァァァンッ!!
けたたましい轟音と、視界を真っ白に染め上げる極光。
膨大な瘴気の塊だった悪魔は、絶対の切れ味を誇る不滅の聖剣によって、その核心ごと綺麗に真っ二つに両断され、内側からの霊力爆発を起こして木端微塵に吹き飛んだ。
断末魔を上げる暇さえ与えない、文字通りの完全なる一撃必殺。
悪魔の消滅と同時に、ダンジョンを満たしていた瘴気が嘘のように晴れ渡り、ユグドラシルの根元へと、本来の清らかな魔力が脈動を伴って戻っていく。
そして、悪魔がいたクレーターの中心には、バスケットボールほどもある巨大な「特級魔石」が、コロンと転がっていた。
「……終わったな。お前たち、怪我はないか?」
息一つ乱さず、いつもの涼しい少年の顔に戻ったリーファスが、デュランダルを霊力へと還しながら振り返る。
「はい! ご主人様の戦いぶり、最高にしびれました! 本当に素敵です!」
クリスが満面の笑みで駆け寄り、リーファスの腕にきゅっと抱き着く。
その光景を見つめながら、ディードリットは静かに自らの剣を鞘へと収め、その場に深く、深く、祈るように頭を下げた。
同胞の魂を救い、里の危機を無傷で救ってのけたこの少年に、彼女はもはや、神への信仰にも似た、絶対的な畏敬の念を抱いていた。
本日もお読みいただきありがとうございます!
もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部の『☆☆☆☆☆』から応援していただけると励みになります!




