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後日談5: 長命種(エルフ)の隠し事

バチカンの喧騒から少し離れた、緑豊かな平穏な街並み。

ディートリットは、普段の厳格な甲冑姿ではなく、風に軽やかに揺れる私服のワンピースを身に纏い、穏やかな陽気の中を一人で歩いていた。エルフとして百年以上の時を生きてきた彼女にとって、人間の紡ぐ日常の光景は、いつ見てもどこか愛おしく、新鮮なものだった。


ふと、前方の果物屋の店先から、怒鳴り声と激しい足音が響く。


「こらっ! 待ちやがれ、このクソガキ!」


店主の声に追われるように、一人の身なりののみすぼらしい男の子が、胸に数個のリンゴを抱えたまま、猛烈な勢いで路地を駆けてきた。必死の形相の少年は、前方に立つディートリットの横を強引にすり抜けようと速度を上げる。


しかし、その瞬間、少年の身体はふわりと宙に浮いた。


「おっと……。少し、急ぎすぎじゃないかしら?」


ディートリットが、風のように滑らかな動きで少年の襟首をひょいと掴み上げていた。百年以上の経験を持つ彼女の動体視力と身体能力からすれば、子供の全力疾走など止まった止まり木を掴むようなものだった。


「離せよ! 離ってば!」


少年が空中で手足をバタつかせ、抱えていたリンゴが地面をごろごろと転がる。ディートリットが少し困ったように眉を下げた、その時だった。


「お、お兄ちゃんをいじめないで……!」


建物の薄暗い影から、さらに小さな、ボロボロの服を着た女の子が涙目で飛び出してきた。怯えに身体を激しく震わせながらも、小さな手でディートリットのスカートをぎゅっと掴み、必死に兄の許しを請う。


「……お願い、ゆるして……。おなかがすいて、動けなくなっちゃうから……っ」


すがるような純粋な瞳。ディートリットの胸の奥が、きゅっと切なく締め付けられた。彼女は少年の襟首を優しく地面へと下ろし、転がったリンゴを一つずつ拾い上げると、憤慨して追ってきた果物屋の店主に向き直った。


「店主さん、大声を上げさせてしまってごめんなさいね。――この子たちの分のリンゴ、そこの袋にいっぱいになるまで、私が全部買い取るわ。それで手を打ってくれないかしら?」


ディートリットが懐から銀貨を差し出すと、店主は呆気にとられながらも、すぐに態度を和らげて袋いっぱいの真っ赤なリンゴを用意してくれた。

ディートリットはそれを両手で抱え、目を丸くしている兄妹へと、最高に優しい、大人の女性の微笑みを向けた。


「さあ、お腹が空いているのでしょう? 案内して。あなたたちの家まで、私が届けてあげるわ」


◇◇◇◇◇


二人の案内で辿り着いたのは、街外れにある古びた孤児院だった。

しかし、その穏やかであるはずの建物の前には、見るからに品性の下劣なゴロツキたちが数人たむろし、乱暴に門扉を叩いていた。


「おい、シスター! 期限はとっくに過ぎてんだよ! さっさとガキどもを連れて、この土地から立ち退きやがれ!」


怯える子供たちを背中に隠し、必死に頭を下げている年老いたシスター。その光景を見た瞬間、ディートリットの美しい顔から一切の笑みが消え去り、エルフ特有の冷徹な、そして圧倒的な強者の気配が立ち上った。


「……随分と、お行儀の悪いお客さんたちがいるみたいね」


静かな、しかし芯の通った声と共に、ディートリットがゴロツキたちの前に歩み出る。


「あぁ? なんだお前、すました顔しやがって――」


凄もうとした男の言葉は、最後まで続かなかった。

ディートリットが目にも留まらぬ速さで、腰の愛剣を鞘ごと一本、男の股間の直下の地面へと突き立てたのだ。凄まじい風圧と共に、石畳が木端微塵に砕け散る。


「ひ、ひぃっ!?」


「次の一歩を踏み出したら、その不細工な足を切り落とすわよ。さあ、消えなさい」


凛とした絶剣の威圧に、ゴロツキたちは悲鳴を上げながら、一目散に逃げ去っていった。

ひとまず危機が去り、ディートリットは子供たちにリンゴを配ると、シスターから詳しい事情を聞くことにした。話によれば、この孤児院の土地の権利を狙い、ある不穏な勢力が執拗に立ち退きを迫って実力行使に出てきているのだという。


案の定、先ほどのゴロツキたちが、今度は十数人の仲間を引き連れて大挙して戻ってきた。

その中央には、不気味な魔導書を手にした『魔物使い』の術師の姿があった。


「あの女だ! 魔術師の旦那、やっちまってください!」


「ふん、ただのエルフごときが。――出よ、我が下僕、オーガ!」


魔物使いが呪文を唱えると、空間が歪み、全長三メートルを超える巨大な醜悪な魔獣、オーガが咆哮を上げて現れた。その圧倒的な巨躯と質量に、孤児院の子供たちが悲鳴を上げる。


しかし、ディートリットは、ふぅ、と小さくため息を漏らしただけだった。


「やれやれ……。その程度の魔獣で、私を脅せると思ったのかしら」


オーガがその太い腕を振り下ろした瞬間、ディートリットの身体が陽炎のようにブレた。

目にも留まらぬ、神速の一閃。

彼女が剣を抜いたことすら、誰の目にも留まらなかった。静かにカチリと刀身が鞘に収まる音だけが響き、次の瞬間、オーガの巨躯は激しい衝撃と共に真横へと弾き飛ばされ、地面に激突してそのまま消滅した。


「な、なんだと……っ!? 我がオーガを一撃で……!」


魔物使いが恐怖に顔を歪め、ガタガタと震え出す。ゴロツキの頭領が、虚勢を張るように必死に声を荒げた。


「お、覚えてろよ! 俺たちのバックには、由緒正しきバチカンの高貴な貴族様がいらっしゃるんだ! 子爵様が本気を出せば、お前らみたいな一般探索者なんて、一瞬で――」


「へえ。その子爵が、私に対してどんな文句を言うのか、少し興味があるな」


路地から響いた、気高く、そしてどこまでも透き通った少年の声。

ゴロツキたちが驚いて振り返ったその先に、黄金の霊圧を穏やかに纏った、碧眼の少年が静かに佇んでいた。


「リーファス……!? どうしてここに……」


驚くディートリットに、リーファスは優しく微笑みかけた。


「ディードが珍しく街へ出かけたから、少し気になってね。――それにしても、そこの君たち。私の婚約者に対して、ずいぶんと無礼な口を利いてくれるじゃないか」


リーファスが軽く一歩を踏み出した瞬間、その身から放たれた世界の頂点たる【 SSランク探索者 】、そして人類の守護者たる【 十二枢機卿・侯爵 】の圧倒的な絶対圧が、その場の空間すべてを完全に圧殺した。

ゴロツキたちも、魔物使いも、その神格級の霊圧に膝を激しく震わせ、その場にばたばたと崩れ落ちて平伏する。


「カ、カモ侯爵閣下……!? 十二枢機卿の……!?」


リーファスの顔を知らない探索者など、この世界には存在しない。自分たちが脅していた相手が、世界を救った最強の英雄の婚約者だと知った男たちは、完全に顔を土気色に変えて絶望した。


「この孤児院は、今後、我がカモ侯爵家が支援する。君たちの言うその子爵にも、二度とこの場所に手を出さないよう、伝えてもらおう。……もし文句があるのなら、いつでも私の邸宅まで来るといい」


端正な顔立ちのまま、静かに、しかし絶対的な冷徹さで告げるリーファス。その底知れない威厳と、自分を「大切な婚約者」として守ってくれる男らしさに、背後で見つめていたディートリットの胸は、激しくトクンと跳ね上がった。


「ひ、ひぃぃっ! 申し訳ありませんでしたぁっ!!」


ゴロツキたちは蜘蛛の子を散らすように、地面を這いつくばりながら逃げ惑い、二度とこの場所に戻ってくることはなかった。


◇◇◇◇◇


シスターと子供たちからの、涙ながらの感謝の言葉を背に、二人は夕暮れに染まる湖畔の帰り道を並んで歩いていた。

普段は冷静で、年上のお姉さんとして振る舞うことの多いディートリットだったが、今の彼女の白い頬は、夕焼けの光よりも赤く染まっていた。


「……ずるいわね、リーファス」


「何がだい?」


不思議そうに碧眼を向けるリーファスに、ディートリットはワンピースの裾を少しだけ恥ずかしそうにぎゅっと握りしめ、上目遣いで彼を見つめた。


「だって、あんなに格好よく助けに来てくれるなんて、思わないじゃない。私のほうが、ずっと長く生きているはずなのに……あなたの前だと、どうしても自分がただの、守られている女の子みたいに思えてしまうのよ」


そう言って、彼女は意を決したように、リーファスの腕にしがみつき、その豊かな胸をぴったりと押し当てるようにして甘えてみせた。普段の凛とした絶剣の姿からは想像もつかない、あまりにも愛らしく、健気な隠し事の開示。


「これからは、私もたくさんあなたに頼らせてちょうだいね? ――私の、大切な旦那様」


エルフの長い一生の中で、これほど愛おしく、心が温かくなる瞬間を、彼女は他に知らなかった。リーファスは少し気恥ずかしそうに苦笑しながらも、その愛しい年上の婚約者の肩を、前世の大人の包容力で、そっと優しく抱きよせるのだった。


本日もお読みいただきありがとうございます!

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