第3話 魔女
「うそ……だろ……」
頭が、指先が、急速に冷たくなっていくのを感じる。
嘘だろ。俺はまだ、ここへ着いたばかりだ。まだ、何もしていない。
実家で俺を嘲笑った両親への、ジュリアスへの、そして俺のプレゼントを踏みつけたエレノアへの復讐も、何一つ……して、いな、い……。
理不尽な世界への怒りと無念さの中で、意識が急激に薄れていく。
落ちていく。暗闇の底へ、どこまでも……どこまでも……。
──その、永遠とも思える暗黒の深淵で。
頭が割れるような衝撃と共に、凛とした、そして傲岸不遜な女の高笑いが脳髄に響き渡った。
『──ふふ。あはははは! 傑作だ! 火だの水だの、あんなケチな火遊びができないだけで絶望し、オモチャの光線に焼かれただけで死にかけるなんて。人間って本当に退屈で、そして滑稽極まりない』
「な、誰だ……!?」
死にかけた俺の精神の核に、直接語りかけてくる気配。
『私の名は……まあ、今は「魔女」とでも名乗っておこうか。お前の中に流れる、その無駄にデカい魔力が、私の意識を叩き起こしてくれた。』
『教えてやる、哀れな元御曹司。お前の頭の固い身内どもは、魔力を「属性」なんていう歪なフィルターに通して、ちっぽけな現象を起こして満足しているけれど……。いい? よく聞けか』
魔女の気配が、俺を撃った男たちを、そしてこの世界の常識を心底見下すように冷徹に囁く。
『【魔力は、質量を持たせて物理で殴るのが一番強い】』
「物理で……殴る?」
『そう。火で炙るより、レーザーで焼くより、数トンの鉄の塊を音速で叩きつけた方が、一瞬で、確実に、すべてを粉砕できる。お前のその規格外の魔力はね、属性魔法に変換するためのものじゃない。──すべてを圧殺する「究極の物理」のためにあるのよ。さあ、その腐るほど余った魔力を、私に預けろ』
胸の焼き焦げた痛みが、冷徹なまでの『純粋な魔力エネルギー』によって塗りつぶされていく。
術式なんていらない。属性なんてクソ食らえだ。
俺を殺そうとした本家も、目の前のクズどもも、すべてを物理で叩き潰す。
「……面白い。やってみろ、魔女……ッ!!」
泥の中で、俺の漆黒の瞳が、見たこともない青い光の回路で埋め尽くされ、カッと見開かれた。
「ちょろい仕事っすねぇ」
下卑た笑みを浮かべる手下をよそに、兄貴と呼ばれた男は懐にレーザー銃を収めながら、冷淡に地面の血だまりを見下ろした。
「領主殺しは、普通なら大罪だ……。いくら依頼されようと、まともな頭をしてりゃ割に合わねぇ仕事だからな。だが、この最果ての星じゃ殺しなんざ日常茶飯事だ。何より、あのお貴族様が提示してきた報酬も破格だったしな」
「しっかし、こいつも運がねぇというか、実の弟に暗殺を依頼されるなんてなぁ」
手下が呆れたように、泥に伏せる俺を見て鼻で笑う。
「貴族の後継争いなんざそんなもんだろ。上に立つ奴はどいつも腹黒い。……さて、と」
兄貴と呼ばれた男が、興味を失ったように俺から視線を外した。
そして、彼らのギラついた欲望に満ちた目が、再び次の獲物へと向けられる。路地裏の奥でがたがたと震える、丸渕眼鏡のメイドの少女。彼女は衣服を引き裂かれたまま、絶望に顔を強張らせていた。
だが──。
「……あ? おい、兄貴、後ろ……」
手下の一人が、引きつった声をあげた。
男たちの背後で、ゆらりと立ち上がる影があった。
今、確かにレーザーで胸を撃ち抜いて殺したはずの男──アレスが、まるで地獄から這い出てきた幽鬼のように、そこに立っていたのだ。
「な、なんだお前……生きて……ッ!?」
男たちが慌てて振り返る。
俺の胸の傷からは、血の代わりに、目に視認できるほどの濃密な魔力が立ち上っていた。体内で暴れ狂うエネルギーが皮膚を突き破り、大気をパチパチと震わせている。
濡れた黒髪の隙間から覗く漆黒の瞳には、蒼い炎が揺らめくように見えた。
それは炎ではない。属性を持たない俺の魔力が、極限まで圧縮されて生じた純粋なエネルギーの渦だ。
「 死ねぇッ!!」
恐怖に駆られた兄貴分が、再びレーザー銃を構えて引き金を引く。
だが──俺の身体は、俺の意志とは無関係に、超自然的な速度で真横へと跳ねていた。
(な──体が、勝手に……!?)
俺の意識はハッキリとある。しかし、手足の主導権は完全に奪われていた。
まるで、自分の肉体というコックピットのシートに座らされ、他人の操縦を見せられているかのような奇妙な感覚。
『驚くことじゃない、小僧。お前はまだ、その規格外の魔力の使い方も、本物の戦い方も知らない。──だから、私の動かし方をその目に焼き付けろ』
彼らは隠し持っていた「近代兵器」──最新式の魔導高周波ブレードや、高出力の熱線ピストルを一斉に抜き放ち、俺へ向けて応戦しようとした。
だが、そんなものは魔女にとって、ただの子供の玩具に過ぎなかった。
魔女が俺の魔力を少し練り上げるだけで、俺の肉体の表面に、目に見えぬほどの超高密度な「(魔法障壁)」が展開される。
男たちが放った熱線も、超振動の刃も、俺の肉体に触れることすらできず、空間の歪みに囚われてすべて火花となって虚空へと無効化された。
「な、なんだよこれ……魔法障壁!? 魔法は使えないはずだろ!?」
絶望する男の一人に、魔女が操る俺の肉体が、一瞬で間合いを詰めて懐へと滑り込む。
極限まで魔力で硬化された俺の拳が、男の腹部へと無造作に打ち込まれた。
ぱんッ──!!!
乾いた破裂音。
衝撃波が男の肉体を突き抜け、まるで風船が弾けるように、男の上半身が骨も肉もまとめて粉っ端微塵に弾け飛んだ。
「ひ、ひぎゃあああああああッ!!」
「化け物だ! 逃げろ、逃げろおぉぉッ!!」
変わり果てた兄貴分の姿を見た残りの手下たちが、黄色い悲鳴をあげながら、路地裏から蜘蛛の子を散らすように逃げ出そうと背を向ける。
しかし、魔女は逃がさない。
俺の右足が、無造作に、しかし鋭く大気を蹴り上げた。
シュバッ!!!
蹴り上げた瞬間、魔力によって超圧縮された空気の塊が、絶対的な「質量」を持った超高速の空気の刃となって発生。
逃げようとしていた手下の一人の背中に直撃し、肉も衣服もまとめてずたずたに引き裂かれてその場に崩れ落ちた。
さらに、残る手下たちを視界に捉えた瞬間、俺の身体が重力を無視して上空へとふわりと飛び上がった。
最高点に達した直後、超スピードの自由落下。
逃げ惑う最後の男の頭上から、魔力を乗せた強烈なかかと落としが炸裂する。
ぐしゃり。
鈍い音が響き、男の頭部から上半身にかけてが、凄まじい質量圧力によって地面の岩盤ごとベコベコに押し潰され、物言わぬ肉塊へと変わった。
静寂が、路地裏に戻ってくる。
すべてが終わった時、アレスの──いや、魔女の操る俺の身体は、飛び散った返り血すら一滴も浴びずに、赤茶けた泥の上に静かに立っていた。
『……ふぅ。まだ目覚めたばかりで、さすがにこの程度の出力でも眠い。──小僧、身体は返すぞ』
脳内で魔女が満足げに、しかしひどく眠たげに呟いた。
その瞬間、俺の瞳から蒼い魔力の渦がスッと消え去る。
「えっ? あ、うわっ!?」
突如として、自分の両手足の感覚が凄まじい勢いで戻ってきて、俺はその場に激しくよろめいた。
あまりの感覚のギャップに驚き、自分の手を何度も握ったり開いたりしてみる。
さっきまで、俺の身体でありながら、俺のものではなかった肉体。
だが、他人の操縦席に座らされていたとはいえ、確かに得るものはあった。
魔力を火や水に変えるんじゃない。
魔力そのものに質量を持たせ、運動エネルギーを与え、ただ『物理』として敵を圧殺する──その感覚の片鱗が、俺の魂に深く刻み込まれていた。
「……これが、俺の力……」
俺が自分の手のひらを見つめて愕然としていると、背後から、がたがたと震える小さな吐息が聞こえてきた。
地面に黄色い染みを残したまま、腰を抜かしてこちらを見上げている、丸渕眼鏡のメイドの少女だった。




