第4章 穢れ(けがれ)
第4章 穢れ(けがれ)
あの頃と同じように机に向かい、椅子に座る。
けれど、そこにいたかつての自分は、もうどこにもいなかった。
いまさらウズメの死を嘆いているわけではない。
きっと彼女だって幸せだったはずだ。
もしウズメが生きていれば、ここから通える地元の大学に進学するつもりだった。
だが俺は、彼女を看取ったこの場所から逃げ出すために、数ランク上の都会の大学を目指した。
そして、喪失感を抱えたままこの歳まで生きてきた。
希望や願いなど一切持たず、裏切られることに怯え、裏切られても悔しいとさえ思わないようにして。
俺の心の奥にはずっと、自分だけが世界の調和から外れた異物であるような、暗く禍々(まがまが)しい感情が渦巻いていた。
それが何なのか、自分でも説明できない。
この家で過ごした十八年間の中で、ウズメや両親と重ねた幸せな記憶よりも、その感情のほうがずっと大きかったのかもしれない。
写真立てに掛けてある首輪へ触れようとして、指先が止まる。
なぜか、自分自身が汚れているような気がした。
ウズメの綺麗な黒い毛を汚してしまう気がして、俺はもう一度、ズボンの腿のあたりで手のひらを強く擦り拭いた。
赤い首輪から下がる鈴は少し黒ずんでおり、過ぎ去った月日の長さを物語っている。
閉ざされたカーテンの隙間から差し込む夕暮れ時の橙色の光は、かつて俺の心を少しだけ温めてくれたはずだった。
だが今では、その温もりすらどこにも残っていない。
夕飯時になり、下から母の呼ぶ声が聞こえた。
「……また、あとでな」
写真立てのウズメにそう告げ、部屋を出た。
居間へ下りると、母が豪華な手料理を食卓に並べてくれており、父はすでに晩酌を始めている。
「このあたり、最近は停電が多くてな。今日はお前が帰ってきているから、停電も起きんかもしれんな」
そう言って笑う父。
「この前は、あの送電線から火花が散っていたそうよ」
困り顔を見せつつも、明るく話す母。
両親は、そんな暗い話題すら軽く笑い飛ばしていた。
俺も『ふふっ』と、少しだけ笑みを返す。
「そういえば……涼介。お前が小さい頃、よく遊んでいたあの神社だが……」
言いかけた父に、母がすかさず目配せを送る。
「そうそう、これ頂き物なんだけど美味しいのよ。食べてみて」
あからさまに気を使い、話を逸らそうとする母。
だが、俺もあの神社のことはずっと気になっていた。
「あの神社がどうかしたのか?」
母の勧めに箸を伸ばしながら、会話を引き戻す。
「数年前に、掛け持ちしていた神主さんが亡くなってな」
「しばらくは氏子さんたちで管理していたんだが、年寄りにはあの階段がきつくて……」
父は、先ほどの母の牽制を察したのか、少し言いにくそうに言葉を紡ぐ。
「魂抜き(たまぬき)をして、あそこにソーラーパネルを建てるらしいんだが……どうも事故が続いてな」
「工事関係者が辞めてしまって、今は工事もストップしている。危ないから近づくなよ」
呪いの類だから近づくなと言うのか。
それとも、事故が起きるほど荒廃しているからなのか。
「近づくなって言ったって、もう神社で遊ぶような歳じゃないわよ」
そう言って母は笑った。
この街から逃げ出し、心の中で覆い隠してきた二度目の祈り。
思い出そうとすると、その記憶だけが綺麗に削り取られているようだった。
どれほど耳を澄ませても、その空白からは何の音もしない。
かつての陽だまりのような鈴の音すら、今は冷たい沈黙の底へ沈み込んでいた。




