第26章 許し(ゆるし)
第26章 許し(ゆるし)
神楽舞台から降りてきたセオリツは、どこか影が薄くなっていた。
それは、着物にあの光り流れていた幾何学模様がないからだけではなかった。
あの圧倒的な上位存在としての気配が、綺麗に消え失せている。
目の前にいるのは、手を伸ばせばすぐに届いてしまう距離に立つ、ひとりの女性だった。
彼女は俺に近づき、そっと手を取る。
「……終わりました」
彼女は小さな笑みを浮かべ、静かに語り出した。
「鈴に込められたあなたの想念は、我々の純粋論理では決して到達できない『特異点』を形成していました」
「人間を滅ぼすことは、宇宙から最も高純度なカオスを失うことに等しいと……」
「……世界を、救えたんだな」
詳しい理論の意味は理解できなかったが、言葉の断片から、少なくとも地球が焼き払われることはなくなったのだと分かった。
空を覆っていた不気味な灰緋色のカーテンは、煙のように薄く小さく消えていく。
「……それで、きみはどうなるんだ?」
本当は、この問いの答えを聞きたくなかった。
すでに彼女の身体が透けはじめ、向こう側の景色が見えていたからだ。
「…………」
セオリツは何も言わず、俺の胸にぎゅっと抱きついてきた。
俺の腕の中にあるはずの彼女の輪郭が、夜風に混ざり合って薄れていく。
けれどその体温だけは、消えゆく幻影の重みとして俺の肌に強く刻みつけられていた。
「……また、俺の願いは叶わなかったのか」
「わたしに消えてほしくないと言った、あの願いですか?」
俺の胸の中で、彼女が愛おしそうに呟く。
「……叶っていますよ」
「……また神たちは、俺の願いで遊ぶのか?」
「宇宙の確率論的ゆらぎの許容範囲内で、あなたの願いを叶えたのです」
「わたしも、ウズメも……あなたという唯一の『観測者』がいる限り、この宇宙から消えることはありません」
「あなたが死ぬまで、その巨大な情報(記憶)という重みを背負い続け……わたしたちの存在を絶対に忘れないでください」
「……屁理屈だよ。それで……俺は君に、どんな対価を払わなければならないんだ?」
「そうですね……尻子玉でも頂こうかしら」
そう言って、彼女は俺の胸でクスクスと戯れるように笑った。
「これ以上腑抜けたら、生きていけないよ」
……もう、とっくに払っているじゃないか。
この先ずっと、忘れられないという『記憶』という形で。
セオリツが俺を通して見た世界で演算エラーを起こしたように、俺の人生だって、彼女のせいで一生狂ったままでいい。
整った、正しいだけの人生なんて最初からいらなかったのだ。
「……地獄まで連れて行ってくれれば、よかったのに」
「……ふふっ、これは『呪い』ですね」
空を見上げて、目を細める……。
それは、どこまでも深く、逃げ場のない孤独な愛の呪いだった。




