第15章 対価(たいか)
第15章 対価
それは水滴ではなく、彼女が演算した『雨という概念』の投影なのだ。
拝殿の屋根に弾ける光の粒は、よく見ると極小の文字列が弾けて消えていく瞬きのようだった。
物理法則を書き換えるという彼女の言葉が、俺の網膜を通して、この美しくも不気味な光景となって結実している。
擬似的でありながら、美しすぎる雨の中で、俺は溢れる涙を止められずにいた。
「ありがとう、セオリツ……全部思い出したよ」
彼女はゆっくりこちらに近づき、俺の横に腰を下ろした。
「一度目の祈りは、許容範囲内の奇跡でした。だから『ウズメ』は留まりました……しかし二度目、あなたは“死の回避”という、この宇宙の基本定数を書き換えようとしました」
そして、静かに言葉を重ねる。
「神があなたの願いを無視したのではなく、宇宙の物理法則があなたの願いよりも強固だっただけです」
彼女の言う『確率論的ゆらぎ』や『基本定数の書き換え』が何なのか、俺には理解できなかった。
だが、自分が神に対してどれほど傲慢なお願いをしていたのかは、痛いほど分かった。
「……ウズメは、そこにいるんだろ?」
隣に座る彼女の存在を、肩の触れ合いを通して感じる。
「……はい。二十年も前から私の一部として、あなたに会うことを待っていた様子でした」
「……そうか。ありがとう、セオリツ。じゃあ……何でも持って行ってくれ。あの時の対価を……」
何を持っていかれるのかと少し身構えたが、不思議と恐ろしさは感じなかった。
「あの時の対価は、もう頂いています」
拝殿の屋根から落ちる雨粒のような光に手を伸ばしながら、彼女は淡々と答えた。
何を差し出したというのか、まったく見当がつかない。
思いつく限り、必死に考えを巡らせた。
「……俺の『やる気』でも持っていったのか?」
自嘲気味にそう呟く。
会議では目立たぬよう気配を消し、定時になれば逃げるように帰る。
そんな二十年間の空虚なルーチン。
大きな不幸もなかったが、心が震えるような歓喜もなかった。
ただ凪のような毎日を、死なない程度に消化してきただけだ。
「残念ながら……それはあなたが単にサボっていただけでしょう」
セオリツは肩をすくめ、容赦なく言い放った。
「じゃあ……俺の『幸せ』や『幸運』か? それとも『魅力』か?」
そのくらいしか思い浮かばなかった。
「そっ……そ、それはあなたが頑張っていなかっただけでしょ」
彼女は明らかに笑いをこらえ、俺をからかっていた。
「じ……じゃあ、教えてくれよ!」
その態度に、少しだけ腹が立った。
「お願いには対価が……」
またその返しか、と思った。
「……自分で考えるよ!」
投げやりな俺の声が、デジタルの雨音の中へ吸い込まれていく。
俺と彼女は並んで座り、雨のような風景に包まれた境内をぼんやりと眺めていた。
彼女は屋根から落ちる光の粒に何度も触れようとしては、決して触れられない動作を繰り返している。
その様子が俺にはおかしく、それでいて泣き出しそうなほど懐かしい光景に見えた。
……しかし。
この幻想的な空間の外側で、世界が確実に崩れ続けているのを俺は知っていた。




