第11章 境界(きょうかい)
第11章 境界
「……セオリツ。一度帰らせてくれ。鈴も必要なんだろ」
俺は間違いなく、この場から一刻も早く離れたかった。
彼女に見せられるものすべてが、俺の理解の範疇を超えていたからだ。
「いいでしょう。きっとあなたはここへ戻ります」
背を向けた彼女は、拝殿の方へ向かって静かに歩いていく。
俺は震える足で、参道の石段へと向かった。
暗闇の階段で何度も転びそうになり、懐中電灯を持っていたことに気づいたのは、中腹あたりまで下りてきた時だった。
暗い足元を見て、最近の頻発する停電も、裏で秘密裏に彼女のリソースとして使われた電力のせいだったのだろうと理解する。
行き道を力強く照らしていた懐中電灯の光は、すでにぼんやりとしか足元を照らさなくなっていた。
「このまま逃げる手もアリか……?」
鈴を渡さず、持って遠くへ逃げれば、世界は救えるのだろうか。
だが、石段を降り切った先の光景が、そんな甘い考えを一瞬で打ち砕いた。
送電線を不気味に走るコロナ放電の青白い光。死んだように消えた街灯。
変電所の方角からは、不気味な白い煙が立ち上っていた。
一切の音が途絶えていることが、かえって狂おしいほどの恐怖を煽る。
「もう……止められないんだな」
そう諦めをつけるしかなかった。
世界がどうなろうと、自分だけは苦しんで死にたくない。
一瞬で全てが消え去るならまだしも、痛みや絶望に身を悶えさせるのは嫌だ。
かといって、自分がこの状況を救う人類のヒーローになれるなどとも思えないし、救う手立てすら存在しない。
そんな思考を巡らせているうちに、あっという間に実家の玄関へと辿り着いていた。
玄関の扉を開けて家の中に入ると、出かける前に見た、手に泡をつけたままの母がまだ食器を洗っていた。
「あら、早かったわね」
不思議そうに尋ねる母。
「……えっ?」
何を言われているのか、理解が追いつかなかった。
居間へ向かうと、俺が出かける前に父が見ていたテレビ番組がまだ流れている。
壁の時計に目をやると、出かけてから三十分も経っていなかった。
セオリツと対峙していた時間は、体感として少なくとも三時間以上はあったはずだ。夢でも見ていたのだろうか。
ポケットに入れた懐中電灯を取り出し玄関の棚に置く。
「これ、電池が切れかかっているよ」
「何言ってるの? 今朝入れ替えたばかりよ?」
そう言いつつも、母は新しい乾電池を持ってきた。
電池を交換しようと裏蓋を開けると、そこには数ヶ月使い倒したかのように異常な熱を帯び、液漏れを起こしかけた電池が無惨に転がっていた。
喉の酷い渇きも、目の奥を刺すような疲労感も、三十分という現実に残酷に抗っている。
理屈では説明できない何かが、確実に起きていた。
時間そのものすら操る彼女たちの規格外の力に、背筋を凍りつかせた。
部屋に戻り机に向かうと、写真立てに掛けられた首輪の鈴が、何かに共鳴するように微かに振動しているのを感じた。
外の世界で荒れ狂うカグツチの波動……人類が生み出した文明(火)が、人類自身を焼き尽くす波動と、彼女の意志に呼応しているかのようだった。
「俺の願いは叶ったって……あの雨の中の二度目の願いで、俺はいったい何を……」
彼女の言葉を信じるなら、俺は決定的な何かを忘れている。
その違和感は、この二十年間ずっと胸の奥に澱(淀み)のように残り続けていたものだった。
あの雨の夜。ウズメの鼓動が止まった瞬間の、指先に残った消え入りそうな命の熱。
俺は確かに、『何か』を口にしたはずなのだ。
だが、その記憶だけが、最初から存在しなかったかのように綺麗に欠落していた。




