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Day 22.楔

 ある夜、メイサは自宅の勉強机に向かったまま、大きく肩を落としていた。



「やることが、多い!!」


「期末前だからなあ」



 スタンドに立てかけたスマホの画面越しに、藤也(とうや)が手元の参考書へ視線を落としたまま答えた。



「でも、メイサはこの試験の結果で大学の推薦もらえるか決まるだろ?」


「そうなんだよ」



 メイサは背筋を伸ばし、机の上のシャーペンを握り直した。



「あのさ、数学なんだけどさ」


「はいはい、どのあたり?」



 藤也は机の端に積まれた参考書の中から、数学の参考書を引き抜いた。


 どうして二年生の藤也が三年生の範囲まで当たり前のように答えられるのか、メイサは今さら尋ねたこともなかった。自分のために予習をしてくれていることは、付き合う前から変わらない。



「あと三十分くらいしたら、いったん休憩してストレッチしようね」


「了解、ハニー。試験前の部活禁止期間、いつからだっけ」


「来週。それまでに家でやっておいてほしい筋トレとストレッチもまとめてバスケ部のグループトークに流しておく」


「無理すんなよ」


「ありがと、ダーリン。ところで、この問題なんですけど」


「はいはい」



 メイサは数学のプリントを持ち上げ、スマホのカメラへ映るよう角度を調整した。


 画面の向こうで、藤也がメガネ越しに目を細めながら問題を読み取ろうとしているのを見て、メイサの口元は思わずほころんだ。


***


 土曜日の朝。メイサが体育館に顔を出すと、一輝(かずき)大雅(たいが)がボールを手にコートを駆け回っていた。



「相変わらず早いな。まなちゃんは?」



「二回戦の日程の確認しに、灰田(はいだ)のとこ行った」


「そっか。昨日の夜、部活禁止期間中のトレーニング内容送ったけど、わかんないとこある?」



 メイサは舞台の隅へノートとボールペン、スマホを並べると、朝日が差し込む体育館を横切って倉庫へ向かった。



「わかんないとこはねえけどさ」



 ボールを軽くつきながら、一輝がその後を追ってきた。



「あれっぽちの練習でいいわけ? 試合前なんだからさ」


「焦る気持ちはわかるけど」


「わかるわけねえだろ」


「じゃあ、突っかかってこないで」



 メイサはすっぱりと言い切った。


 そのとき、体育館の入り口から海斗(かいと)(しょう)が姿を見せ、少し遅れて藤也も入ってきた。


 水を飲んでいた大雅は険しい空気を感じ取ったのか、顔をしかめながら一輝とメイサの間へ割って入ろうとした。



「まあまあ、体動かしたかったら、駅向こうのバスケットコート行こうぜ」


「バスケットコート行ってたら意味ないでしょ」



 メイサに睨まれて、大雅は両手を上げた。


 メイサは真っすぐ一輝を見上げた。



「ボールを持つだけが練習じゃないよ。自分の体をきちんと使えるようにメンテナンスして、それをどんなときでも続ける。それがアスリートなんじゃないの」


「そうかもしれねえけど」



 一輝の顔が苦しげにくしゃりと歪み、握ったボールへ力がこもった。



「片手間で偉そうにしてるだけのお前に、何がわかるんだよ」



 メイサは呆れたように口を開きかけたが、その前に藤也が一輝の腕を強く引いた。



「ざっけんなよ!? お前、それ、マジで言ってるわけ!?」


「藤也、いいから」


「よくねえ、ふざけんな!」



 藤也は一輝から手を離すと、舞台に置かれていたメイサのノートをつかみ、その場で勢いよく開いた。


 ページには余白がほとんど見えないほど書き込みがびっしりと並んでいた。その光景に、一輝は思わず唇を噛んだ。



「これが片手間に見えるのかよ! 俺ら五人全員分の個別トレーニングメニューを考えてあるんだぞ!? それも毎週だ! 今まで練習試合をした相手のことも、これから当たるかもしれない相手のことも、全部びっしり書いてある。黒杉(くろすぎ)先輩がじっとしていられないからって、朝飯のメニューまで赤江(あかえ)先輩と相談してたんだぞ!」



 大雅は目を見開き、思わずメイサへ視線を向けた。メイサは「ふん」と小さく鼻を鳴らしただけで、何も答えなかった。



「もし片手間だったとして! ここまで真剣に取り組んでもらって、何が不満なんだよ! 自分のつまんねー焦燥感、メイサに押しつけんな!」



 藤也の怒声が消えると、体育館は水を打ったように静まり返った。


 館内の半面で練習していたバレー部も手を止め、何事かとこちらの様子をうかがっていた。


 メイサは小さくため息をつくと、バレー部へ「なんでもない」と声をかけた。



「黒杉、須藤、そこに正座」


「はい、三枝(さえぐさ)先輩」



 藤也は素直にその場へ腰を下ろし、一輝も顔をくしゃりと歪めたまま、静かに正座した。



白石(しらいし)、ポール並べて。青川(あおかわ)茶野(ちゃの)、昨日の夜に送ったストレッチと筋トレ、全部順番にやって。わかんないとこがあったら、まなちゃん戻ったら聞いて」


「了解」



 大雅は短く答えると、二年生の二人へ目配せした。


 三人が動き出したのを見届けると、メイサも一輝と藤也の前へ静かに正座した。



「須藤、怒ってくれてありがとう。黒杉は、不調はちゃんと報告しな?」


 一輝は視線を落としたまま、何も答えなかった。


 藤也が不思議そうにメイサの顔を見る。



「どういうこと?」



 メイサは何も答えずに立ち上がると、一輝の後ろへ回り込んだ。


 一輝が焦ったように振り返ろうとした瞬間、ためらいなく一輝の腰を軽く叩いた。



「いったっ」



 一輝は思わず前のめりに崩れ落ちた。


 突然のことに藤也は一歩後ずさりし、メイサは何事もなかったように振り向いた。


 メイサの視線の先には戻ってきた愛香が目を丸くしている。



「あ、まなちゃん。こいつ、病院に連れて行って」


「一輝!? えっと、メイちゃんも、なに、どうしたの?」



 慌てて駆け寄った愛香は、メイサと一輝を見比べた。



「腰、痛めてたでしょ」


「なんで」



 よろよろと起き上がる一輝を前にしても、メイサは何事もなかったような顔をしていた。



「逆に、なんで気づかれないと思ってたの? 歩くたびに体が少し傾いてたよ。須藤、私のスマホ持ってきて」



 藤也から受け取ったスマホを、メイサは素早く操作した。



「まなちゃん、今、スポーツ専門の先生がいる病院の住所を送ったから」


「三枝先輩、手際いいですね?」



 藤也が恐る恐る聞くと、メイサは「当たり前でしょ」と腕を組んだ。



「私、二年半ずっと無茶ばっかりするサッカー部の連中に付き合ってきたんだよ」


「一輝、おばさん迎えに来るって。メイちゃん、ありがと。いきなり行って大丈夫かな」


「灰田先生に電話しておいてもらおう。私から説明しておくから」



 メイサは愛香と一輝が体育館を出ていく姿を見送り、小さく息をついてから振り返った。



「白石、ストレッチと筋トレ終わったらハンドリングしといて」


「あいよ。……えっと」



 大雅が片手を上げて、何かを言いかけた。


 メイサはつかつかと大雅の前まで歩み寄った。



「副部長、あとはよろしく。……って言っても、私も灰田先生に事情を説明したら戻るから。須藤は白石の指示に従って」


「了解、三枝先輩」


「しゃんとしな、副部長」



 メイサはまっすぐ大雅を見上げた。



「……了解、マネージャー」



 大雅はごくりと唾を飲み込み、一瞬うつむいた。だがすぐに笑顔を作って振り返る。



「うっし。それじゃ、コーンも並べたし、ハンドリングしようぜ。ボール取ってこよう」



 メイサは小さく頷くと、朝の光が差し込む体育館を後にした。


***


 そのまま職員室へ向かう。休日の校舎はひとけが少なく、静まり返った廊下には足音だけが響いていた。職員室では、灰田がバスケの試合動画を流しながらプリントを作っていた。



「せんせー、黒杉くん病院行きましたー」


「待て待て、情報が少ない」



 焦った表情を浮かべる灰田に、メイサは手短にこれまでの経緯を説明した。


 話を最後まで聞き終えた灰田は、「はいはい」と頷きながら受話器へ手を伸ばした。



「あ、そこの先生は今日は来ないから、座ってていいし、置いてあるお菓子も食べていい」



 メイサが聞き返す間もなく、灰田は手際よく病院へ電話をかけ始めた。


 少し迷った末に、メイサは灰田の隣の席へ腰を下ろし、背もたれへ深く身を預けた。


 やがて受話器を置くと、灰田もふっと背もたれへ体を預けた。



「これでよし。お疲れさま。迅速な対応だったね。さすがサッカー部の敏腕マネージャー」


「内申に追記しといてください」


「サッカー部の顧問の先生にも口添えして、僕からも加点してもらえるよう頼んでおくよ。それくらいのことは十分してくれてる。黒杉はあとで説教だけどね」


「あはは、お願いします」


「まあ、赤江の甘やかしすぎもあるし、焦りがあるのもわかる。が、それらは全部黒杉の自業自得、因果応報でしかない」



 淡々と言い切る灰田に、メイサは思わず目を丸くした。



「灰田先生、意外とばっさり言うんですね」


「怒ってるからね。きみも怒った方がいい」


「私が怒る前に須藤くんがものすごく怒ってくれたので、そっちに気を取られちゃって」



 メイサが苦笑すると、灰田は渋い表情を崩さないまま、静かにメイサを見返した。



「須藤は頼もしいけどさ。僕はあいつのことも心配なんだ。期待されたら、その期待以上に応えることができてしまうから」


「……私も、気をつけます」


「ダメだよ」


「ダメなんですか」



 灰田は目を細めると、机へ肘をつき、ゆっくりと頬杖をついた。休日の静かな職員室には、遠くから聞こえる運動部の掛け声だけがかすかに響いていた。



「三枝が須藤の世話を焼きすぎると、赤江と黒杉の二の舞だ」



 メイサは灰田の顔を見つめ、何度か小さく瞬きをした。



「須藤はいい男だ。三枝の手を引いて、前を向かせて、背中を押してくれた。だから、その気持ちに献身で応えたくなるのも分からなくはない。でも違う。須藤に応えるなら、君自身が結果を出すんだよ」


「……灰田先生って、先生だったんですね」


「悪いね、今まで何もできてなくて」



 苦笑する灰田を見て、メイサは小さく首を横に振った。



「そんなことないです。体育館の早朝利用申請も、公式戦の手配も、視聴覚室の利用許可も、そういう細かいことを全部やってくれてましたよね」


「それくらいするさ。顧問だし、先生なんだから。それに僕はジャンプ育ちだからね。友情、努力、勝利。そういうのが大好きだ。君たちが勝利をつかむのを楽しみにしてるよ」



 メイサは立ち上がった。



「ありがとうございます、灰田先生。そろそろ部活に戻ります」



 灰田へ深く頭を下げると、メイサは静かな職員室を後にした。


 廊下を歩きながらスマホを見ると、愛香から『病院ついた』というメッセージが届いていた。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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