Day 20.渡り鳥
翌日は日曜日で、学校も部活も休みだった。
本来であれば地区大会の序盤は一日に何試合も組まれるものだが、今回は各校の予定や連休の日程が重なり、第二試合までは間が空いていた。
一輝はいつも通りの時間に起き、朝のランニングへ出かけた。一時間ほど走って帰宅すると、ちょうど母親が出かけるところだった。
「仕事で呼ばれちゃったから行ってくる。食事は昨日の残りが冷蔵庫に入ってるから、全部食べていいよ」
「はいよ、いってらっしゃい」
「お父さんは寝てるけど、午後からおばあちゃんのお見舞いって言ってたから、昼になっても起きなかったら起こしてあげてね」
「わかった」
一輝は母親を見送ると、汗を流すためにシャワーを浴び、リビングへ向かった。
食卓に置かれていたパンと、冷蔵庫から取り出したゆで卵、ヨーグルトで朝食を済ませ、自室へ戻った。
宿題を片づけ、スマホを眺めても、まだ時計の針は九時前を指していた。
「んー……」
一輝は手の中のスマホをぼんやりと眺めた。
通知はない。
少し迷ってLINEを開く。一番上はバスケ部のグループトーク。二番目は愛香。三番目がクラスのグループトークで、四番目は大雅。
一番目か、二番目。
散々悩んだ末に二番目を押そうとした、そのときだった。家の呼び鈴が鳴った。
「はいはい、どちらさま……」
インターホンに映っていたのは愛香だった。
***
「どした?」
一輝が玄関の扉を開けると、愛香が「おはよー」と笑いながら入ってきた。ノースリーブのフード付きワンピースに薄手のスキニーを合わせ、足元は涼しげなサンダルだった。
「昨日の今日で無茶なトレーニングしてないか見にきた」
「そういうことするから、母親が俺の世話係にしちまうんだろうが」
「そうかも。おばさんは?」
「仕事。親父は寝てる」
「宿題した?」
「した」
「じゃあいいか。帰る」
「待て待て」
一輝は愛香を自分の部屋に連れて行った。
「昨日の試合、スマホで撮ってただろ。見せてくれ」
「いいよ」
愛香は床に置かれていたクッションへ遠慮なく腰を下ろし、肩から提げていたスマホを手に取った。
「えっとねー、クオーターごとに分けてあるんだよね」
「全部ある?」
「ある。昨日のうちにメイちゃんと共有してる」
横から覗き込んでいた一輝は少しだけためらったあと、見やすい位置を探すように、愛香を後ろから包み込むような格好で座り直した。
「ど、どしたの」
「見づらい」
「近いけど?」
「嫌?」
「……だいじょぶです」
目の前にある愛香の首筋から耳まで真っ赤に染まっているのを見て、一輝は思わず少しだけ体重を預けた。
「重いよ」
「愛香は小せえな」
「普通だって。身長も体重も平均……より、ちょっと下だけど」
「小させえんじゃねえか。それより、試合見せろ試合」
一輝は愛香の胴へ片腕を回して軽く引き寄せ、もう片方の手でスマホを支えた。
愛香はスマホを操作し、昨日の試合の動画を再生する。
「あー、そうだよな、ここ、俺の動き遅かったよな」
「ちょっとね。違うとこ見てたでしょ」
「うん。こっちでフェイントかけてて引っかかった」
「視野が広いと、そういうフェイントにも引っかかっちゃうんだよねえ」
「遠くばっか見てて、手前が見えてなかったんだよな」
バスケも、それ以外も。そう付け足そうか迷って止めた。
一輝は、自分が藤也のような気障な台詞をさらりと言える性分ではないことくらい、わかっていた。
第二クオーターまで見終えると、一輝は少し身を引いた。
「なんか飲み物取ってくる。麦茶でいい?」
「私も行くよ。一輝、来客用のコップの場所わかんないでしょ」
「来客用はわかんねえけど、愛香のコップがどこにあるかならわかる」
愛香が困ったような顔で一輝を見上げた。
「なんで?」
「ずっと俺のコップの隣に並べてあるだろ」
「……気づいてたの」
「アホか。それくらいわかってるっつの」
一輝は自分の信用のなさに苦笑しながら立ち上がると、愛香の髪をぐしゃっと撫でて台所へ向かった。自分のコップと愛香のコップにそれぞれ麦茶を注ぎ、そのまま部屋へ戻る。
「持ってきた。なんか食う? つってもちょっとした菓子くらいしかないけど」
「ううん。大丈夫。ありがと」
一輝は再び愛香を肩越しに画面をのぞき込める位置へ座り直し、麦茶を飲んでコップを床へ置いた。すると愛香はすぐにそれを拾い上げ、テーブルへ戻した。
「続き見せろ」
一輝が愛香を抱き寄せると、愛香は身じろぎして振り返った。
「いいけどさ、どしたの、本当に」
「……愛香、彼氏いる?」
「は? いたら休みの日に幼馴染みの家に顔出してないよ」
「だよなあ。昨日、試合の後にさ……言わなきゃダメか?」
「何が?」
「今度でいい? まだ試合残ってるし」
「意味がわからない……」
愛香は腑に落ちない顔でスマホを手に取り、試合の動画を再生し始めた。
第四クオーターまで見終えると、愛香がもう一度振り返った。
「これでおしまい」
「愛香から見て、悪かったところは?」
「一輝はフェイントに引っかかりすぎ。あと、みんなもそうだけど、後半になるとやっぱりバテるね」
「バテるのはなあ。そもそも交代できねえから」
一輝は顔をしかめながら、力を抜いて愛香にもたれかかった。
「重いってば。体力はもう、正直根性論になっちゃうというか……。一応メイちゃんと様子を見ながら、疲れてきたらドリンクにクエン酸とブドウ糖を足すくらいしかできないんだよね」
「エナドリは?」
「よくない。あれは借金だから」
「そうなん。……なんかそわそわしてきたから、走ってこようかな」
「ダメだよ。一輝、朝も走ってたでしょ」
愛香がじろっと睨んだ。
「なんで知ってんだよ」
「シャンプーの匂いしたからね」
「……嗅ぐなばか」
「これだけ近かったら分かるから! じゃあ、一緒に体幹トレーニングしようか。体勢が安定すれば、無駄な体力を使わずに済むしね」
「する」
一輝は愛香から体を離す。
腕の中が急に寂しくなり、藤也がメイサにべったりくっつきたがる理由が少しだけわかった。一輝は思わず愛香へ視線を向けた。
「じゃあ、四つん這いになって」
「……うん」
「声がか細いよ。はい、しゃんとして」
「俺の愛香が三枝そっくりになってきた」
「うっさいよ。はい、お腹に力入れて!」
***
翌日の昼休み。一輝が校舎一階の自販機で飲み物を買っていると、窓の向こうの中庭に藤也の姿が見えた。
一輝が窓越しに様子をうかがうと、藤也は園芸部部長の草野と熱心に話し込んでいた。二人は分厚いファイルを覗き込みながら、何かを相談している。
中庭の花壇には花はほとんど咲いておらず、植え替えを終えたばかりなのか、土がきれいに整えられ、雑草すら生えていなかった。その一方で、校舎沿いのアジサイは雨上がりの光を受けるように鮮やかに咲き誇っている。一輝は、その景色を初めて意識した。
「あ、黒杉じゃん。須藤返せよ」
一輝に気づいた草野が笑いながら近づいてきた。その後ろを、藤也ものんびりとついてきた。
「一回戦勝ったからダメ」
「そら残念。黒杉が引退するときの花束は俺が作ってやるよ」
「いらねえ。俺じゃなくて愛香に作ってやってくれ」
「あ、彼氏面だけじゃなくて、本当に彼氏になった? よかったね」
「なってない」
「やべー、彼氏面してるだけで引退の花束贈ろうとしてんの。愛だね」
「うるせえ……」
一輝が露骨に嫌そうな顔をすると、草野は楽しそうに笑いながら元の場所へ戻っていく。
「黒杉先輩、今日の午後の部活は視聴覚室ってメイサから連絡来てましたけど、見ました?」
「見てねえや。了解。またあとで」
藤也は軽く頭を下げると、草野の待つ花壇のほうへ戻っていった。
***
放課後。一輝が大雅とともに教室を出ると、二組の教室前にはメイサの姿があった。
一、二年生の女子部員たちに囲まれ、真剣な表情で何かを話していた。
「熱くなってきたから、塩タブレット追加注文しといてね。各自の顔色しっかり確認すること。あと湿度が高いと汗かきにくいから気をつけて。大会前の練習メニューだけど……」
一輝と大雅は、少し離れた場所からその様子を眺めていた。
「三枝さん、見た目、馬鹿なギャルなのにな」
大雅が呟く。
「俺、前にそれ言って須藤に切れられた」
一輝が言うと、大雅が苦笑した。
「そりゃそうだ。行こうぜ一輝。視聴覚室だろ」
「ああ、行こうか。鍵、愛香がもらってくるってさ」
歩き出した大雅の背を追うように、一輝も踵を返した。
ふと一瞬だけ足を止め、振り返る。
メイサはまだ後輩たちに囲まれ、一人ひとりの話へ丁寧に耳を傾けていた。
「一輝?」
「んー、なんでもない」
一輝は大雅の後を追った。
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