Day 16.秘密基地
ある日の朝練。体育館には朝の澄んだ空気が残り、準備運動をする部員たちの声が響いていた。
その中で藤也はストレッチをしながら、メイサの背中をじっと眺めていた。
メイサは前屈をする翔の背中を押している。
「メイサー、俺の背中も押して」
「部活中は三枝先輩って呼んで」
メイサはそう答えると、翔の背中へゆっくりと体重をかけていく。
「いった! 痛い、痛いです!!」
「茶野、あんた本当に風呂上がりのストレッチしてる?」
「……二日に一回くらい」
「毎日やんなきゃ意味ないでしょうが!」
「痛いです! 折れる!」
「折れてから言え」
藤也は唇を尖らせ、不満そうな顔でその様子を眺めていた。
やがて、体育館に響いていた翔の悲鳴がぴたりと止んだ。
もちろんメイサが手を止めたわけではない。ただ、悲鳴が低いうなり声へと変わっただけだった。
「まあ、これくらいで許してやるか……あとでストレッチメニュー送っておくから、ちゃんとやんな」
「ひゃい……」
「次、青川」
「げえ」
「ストレッチをそんな小幅でやってたら意味がない!」
メイサは床に寝転び、股関節をほぐしていた海斗の膝を横からぐっと押し込んだ。
海斗も思わず低いうなり声を漏らし、その声は少し離れた藤也のところまで届いた。
「いいなあ」
「よくねえよ、いてえっての」
つい呟いた藤也に、翔が白い目を向けた。
「海斗、めっちゃ柔らかいな」
「メイサはもっと柔らかいよ」
「あれな……柔らかすぎて気持ち悪……睨むなよ」
藤也は翔をひと睨みすると、すぐに海斗のストレッチを手伝うメイサへ視線を戻した。
同じ部活なら一緒に過ごせる時間も増えると思っていた。だが実際はそうではなく、メイサはマネージャーとして忙しく立ち回っている。
その姿を目の当たりにするたび、他の部員たちに向けられる気遣いや笑顔まで目に入ってしまい、藤也の胸には言葉にならないもやもやが積もっていった。
「くそー」
藤也は不貞腐れた顔のまま、屈伸をし、太ももを伸ばし、アキレス腱をじっくりとほぐしていった。
「藤也はちゃんとやってる?」
「やってます!」
「偉いねえ」
「もうちょっと褒めて」
藤也が思わずそう口にすると、メイサはくすくすと笑いながら藤也を見上げた。
「だって、毎晩ビデオ電話つなげて宿題したり、一緒にストレッチしてるじゃん。藤也がちゃんとやってるの、知ってるもの」
「……好き」
「それも知ってる。ストレッチ終わったらシャトルランやろうね」
「了解、ハニー」
「三枝先輩とお呼び」
「はい、先輩」
メイサは苦笑しながらノートを抱え直すと、次の部員のもとへ歩いていった。
「うざ」
「見せつけやがって」
翔と海斗がぶつくさと文句をこぼす。それを聞いた藤也は、満面の笑みで振り返った。
「このためだけにバスケ部にいるんだ、俺は」
「くっそ、頼んだ手前なんも言えねえ」
「シャトルランで転べ」
「二年、ちゃんとやれ!」
メイサにぴしゃりと叱られると、三人は顔を見合わせて苦笑し、それぞれストレッチへ戻っていった。体育館には再び部員たちが体を動かす音が響き始める。
***
昼休み。教室には弁当の匂いと賑やかな話し声が満ちる中、柳と昼食をとっていた藤也のもとへ、メイサがひょいと顔を出した。
「藤也いるー?」
「こっち。どうした、珍しい」
「今日の午後練でアウトナンバーするから説明にきた。バスケ部員たちは知ってるだろうけど、藤也は知らないでしょ」
「好き」
「知ってる」
メイサが藤也の席の前に腰を下ろし、説明を始めようとしたそのとき、近くにいた女子生徒が二人、ぱたぱたと歩み寄ってきた。
「三枝先輩、それ、私たちも聞いていいですか?」
「いいよ。あ、この子たち、サッカー部のマネージャー」
「へえ?」
藤也は首をかしげ、少しだけ嫌そうな顔をしたが、女子二人は気にする様子もなく藤也とメイサの隣へ腰を下ろした。
「サッカーでもやるからね、アウトナンバー。オフェンスがディフェンスより多い人数でする、攻撃の練習だよ」
サッカー部のマネージャー二人は、納得したように何度もうなずいた。
「そうそう。一年生に説明したいけどうまく言えなくて」
「三枝先輩の説明をお手本にしようと思って聞きにきた」
「ごめんね、須藤くん。邪魔して」
「ほんとだよ」
「はいはい、説明続けるよ」
メイサは使い込まれたバスケ部のノートを取り出した。
真っ白なページを開くと、迷いなく長方形のコートを描いていく。
「最初は慣れてる三年生二人と青川にオフェンスをやってもらうから、藤也は茶野と一緒に『どう攻めているか』をよく見ててね。たぶん黒杉が最初に仕掛けると思う」
「なんで?」
藤也が尋ねると、メイサはとん、とノートを指先で叩いた。
「黒杉は元々パワーフォワードだからね。がつがつ攻めてくるタイプ」
「じゃあ、黒杉先輩の動きを見てればいい?」
「それだけじゃ駄目だよ。まあ、実際にやってみればわかるけどね。『習うより慣れろ』って、五十六ちゃんも言ってたっしょ」
「山本五十六は『やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ』だろ……」
藤也は呆れたように肩をすくめた。一方、サッカー部のマネージャー二人は「なるほどです」と素直にうなずいている。
「三枝先輩、サッカー部でアウトナンバーするんですけど、おすすめのメンバー構成あります?」
「まずは慣れてる三年生にやらせて、一年と二年にお手本見せればいいよ。それこそ『やってみせ』だね。メインのオフェンスは一ノ瀬にやらせるといい」
一ノ瀬颯の名前が出た途端、藤也は唇を尖らせた。メイサの従弟であり、サッカー部のエースでもある颯とは、どうにも馬が合わない。
「ディフェンスはキーパーの双葉くんと……」
「わかりました、それで提案してみます」
「たぶん他の三年のマネージャーに聞いても同じこと言うと思うけどね。美玲に聞いてみて。そういうのは美玲が得意だから」
「わかりました! ありがとうございます!」
マネージャー二人は立ち上がると、メイサへ丁寧に頭を下げ、礼を言いながら教室をあとにした。
「……ぶー」
その様子を見送っていた藤也が不貞腐れたように頬を膨らませると、メイサは小さく笑い、そっと手を伸ばした。
伸ばされた手が、藤也の短い髪を優しく撫でる。
「……ワックスつくよ」
「いいよ、ワックスくらい。私のハニーの機嫌の方が大事だから」
優しく目を細めるメイサを前にして、藤也は照れくささと嬉しさが入り混じり、どう返していいのかわからなくなった。
「ごめんね、器が小っちゃくて」
「そんなことないよ。最近、全然二人でいられてないし。次の土曜日は練習試合ないから、それぞれの部活の後デートしよう。……バイトまでだけど」
藤也は顔を緩ませてメイサを覗き込んだ。
「土曜は俺、じいさんの手伝いで剪定行かねえと」
「私はママさんの畑の手入れを手伝う予定だから、途中まで一緒だよ」
「そっか。じゃあ、『いってらっしゃい』って言って」
「言うよ。『おかえりなさい』も言う」
「楽しみにしてる」
ようやく藤也は安心したように笑い、まっすぐメイサを見つめた。昼休みの教室には相変わらず賑やかな声が響いている。
メイサはギャルらしい華やかなメイクとは対照的に、爪は短く切りそろえられている。藤也の実家の花屋で働くようになってからは、指先は乾燥し、ときには土が残っていることもある。その手を見るたびに、藤也はありがたいような、申し訳ないような気持ちになった。
藤也はメイサの指先に触れる。
「土曜日の帰り、ハンドクリーム塗らせて」
「いいけど、それ、パパさんがいつもママさんにやってるやつ」
「うるせえな、やりたいんだよ」
「おじいさんもおばあさんにしてるもんね」
「須藤の男はそういう生き物なんだよ」
藤也がそう言ったちょうどそのとき、校内に予鈴が鳴り響いた。
予鈴に促されるようにメイサが立ち上がると、藤也もそのあとに続いた。
二人は昼休みの賑わいが残る廊下を並んで歩き、階段までゆっくりと向かった。
「俺、別にメイサがバスケ部のマネージャーやってるのは嫌じゃないんだ。いつもと違う、かっこいいとこ見られて嬉しいし」
「ありがと。私も藤也がバスケ部やってるの見るの、好きだよ。なんだかんだ楽しそうだからさ」
「そうかも。園芸部も楽しいけど、バスケ部もやってみたらけっこう楽しかった。もうちょっと、一緒にやりたいな」
「もちろん」
メイサはにこりと笑うと、軽やかな足取りで階段を下りていった。藤也はその足音が聞こえなくなるまで見送り、それから自分の教室へ戻った。
途中で海斗が廊下の反対側から歩いてきた。
「よーう」
「おー。あ、午後、アウトナンバーやるって」
藤也がそう言うと、海斗は「へー」と気負う様子もなく答えた。
「俺、どっちか聞いた? オフェンスかディフェンスか」
「マジで知ってんのかよ。ムカつくなー」
「えー、なんで俺怒られてんの。いいじゃん、藤也も教わったんだろ?」
「まあ」
「疲れるけど楽しい練習だからさ。藤也は頭で考えて動くの得意そうだから、きっとすぐ慣れる」
「……海斗がいいやつすぎて、本当にやだ。最初はディフェンスだってさ」
「なんとでも言ってくれ。ディフェンスかーってことは黒杉先輩がオフェンス。やべー、楽しみ」
海斗はからりと笑うと、手をひらりと振って教室へ入っていった。
藤也も自分の教室へ戻ろうと歩き出した。
ふと父親に言われたことを思い出す。
『藤也がそうやっていろいろやってるの見るのは楽しいし、嬉しいよ』
教室へ戻って席に着くと、藤也は静かに窓の外へ目を向けた。
雨雲の切れ間から差し込む梅雨の晴れ間は、いつもより眩しく、どこまでも澄んで見えた。
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