3.夫は初恋の未亡人に不自由を感じさせたくないそうです。妻である私を蔑ろにしてまで
アルバンは、小サロンの重苦しい空気から逃れるように廊下へ出た。
窓辺には春の柔らかな日差しが満ちている。
しかし、エレオノーラのどこか冷徹なまでの正論が、耳の奥にこびりついて離れない。
『明確な立場も理由もない平民を、私情だけで置くことは許容できません』
(傷つき、怯えるミレーヌの前で、よくもあんな冷徹な真似を――!)
「アルバン、私……迷惑だったかしら……」
「ミレーヌ……!」
アルバンは眉根を寄せ、彼女の肩を抱き寄せる。
不安げに見上げてくるミレーヌの顔を見て、アルバンは声を和らげた。
「エレオノーラには、後で俺からきちんと言って聞かせるから」
「私は大丈夫よ……奥様のような、きちんとしたお家の方々に歓迎されないのは、慣れているから」
「ミレーヌ……ッ!」
ミレーヌは悲しげな表情で俯き、アルバンの袖口を遠慮がちに握った。
その儚げな仕草が、彼の庇護欲を否応なく掻き立てる。
(俺が守らなければ。今度こそ、俺が――)
アルバンはそう考えながら視線を動かし――ふと、足を止めた。
(……侍女が、ひとりしかいない……?!)
昔、実家で父が使用人たちに傅かれていた光景が脳裏をよぎる。
もっと多かった。もっと厳かな雰囲気があった。父が迎え入れた客人には何人ものメイドや使用人が傅き、最高級の待遇を見せていた。
なぜ、ミレーヌには誰もついていないのか。
(この侍女だって、俺が命じるまでミレーヌを客人として扱おうともしなかった。使用人なら――いや、違う)
使用人だけの問題ではない。
そもそも、こうならないよう場を整えるのが、妻の役目ではなかったか。
客人を迎える支度。
主の面目を守る振る舞い。
そして、夫が言葉にする前に、その望みを汲み取ること――そう考えた瞬間、アルバンの胸の奥で、古い記憶がふっと浮かび上がった。
結婚して間もない頃。
アルバンがエレオノーラを連れて実家を訪ねた時のことだ。
◆
母は、エレオノーラに嫁の心得を教えていた。
しっかりしたところのあるエレオノーラにそんなものは不要だと、アルバンは思ったものだ。
『妻たる者、夫の望みを追いやってはなりませんよ。たとえ夫が、あなた以外の女性を気にかけたとしてもです』
『殿方には、時に妻とは別の安らぎが必要になることもあります。それを恥と騒ぎ立てるのは、家を預かる女のすることではありません。夫が恥をかかぬよう、妻は常に務めねばなりません』
『自分の痛みに目を向ける女は、夫を失望させます。妻ならば、己の不満など奥へ下げなさい。夫の望みが滞りなく叶うようにする。それが妻の務めです』
『エレオノーラさん。あなたが持つものは、あなた一人のものではありません。夫を立て、その実家のためにこそ使われるべきものなのです。屋敷も、使用人も、財も、人脈も。妻が握りしめてよいものなど、ひとつもないのですよ』
『分かりましたね? エレオノーラさん』
◆
(母上は、始めから見抜いておられたのか。エレオノーラの妻としての未熟さを……)
妻ならば、夫の望みを察するのは当然のこと。
夫が大切にしている相手ならば、なおさら丁重に迎えるのが貴族としての常識。
客人を蔑ろにし、夫に恥をかかせるなどありえない。
それができずして……伯爵夫人といえるのか?
自覚が足りなすぎるのではないか?
「俺は……エレオノーラを甘やかしすぎていた……!」
吐き捨てるように呟く。
その声は、広い廊下に思いのほか響いた。
◇
廊下の突き当たりにある、他の客間とは明らかに造りの違う両開きの大きな扉。
深い艶を帯びた黒胡桃のそれには、ラングレイ家の紋章をかたどった銀の装飾が施されている。
侍女は無言のまま扉の取っ手に手をかけ、静かに押し開いた。
春の光がたっぷりと注ぎ込む客間が、ゆっくりと姿を現す。
天蓋付きの寝台に、ふかふかの絨毯。調度品の一つひとつが、この屋敷の歴史と格式を物語っている。本来ならば、遠方からの貴賓客や親族が宿泊する際にのみ使われる部屋だ。使用人居住区などとは比べるべくもない。
「こんな立派なお部屋、本当にいいの……?」
ミレーヌは扉の入り口から一歩踏み出し、息を呑んで立ち尽くした。驚きと恐縮が入り混じった声で、彼女は部屋の中を見回す。
「私のような者が使っていい場所じゃないわ。きっと奥様がお怒りになる……」
アルバンはミレーヌの背中を優しく押し、部屋の中へと促した。
「遠慮は無用だよ。君は俺の大切な人なんだから」
「嬉しいわ、アルバン」
ミレーヌはおずおずと寝台の方へ歩み寄り、そっとシーツに触れた。
指先が沈むほどなめらかな布地に、彼女の喉が小さく鳴る。視線は寝台から銀の燭台、鏡台へと吸い寄せられていった。
彼女はうっとりとした様子で刺繍をなぞる。
「……ふふっ……素敵――」
ミレーヌの小さなつぶやきは、アルバンの耳には届かない。
振り返り、涙ぐむような微笑みをアルバンへ向ける。
「ありがとう、アルバン。あなたがいてくれて、本当に良かったわ」
その一言が、アルバンの胸をこれ以上ないほどに満たしてゆく。
ミレーヌの微笑みを前にすると、エレオノーラの言葉はただの嫌味にしか思えなかった。
侍女が茶器を整え、ミレーヌの手荷物を控えめに脇へ寄せる。
その動きを待ちきれないように、アルバンは次の指示を飛ばした。
「ミレーヌの身の回りの品を手配してくれ。着替えはもちろん、化粧水や整髪料も揃えるんだ。――あと、彼女がくつろげるように、茶と軽い菓子も頼む」
「かしこまりました。ご希望の取引先などはありますでしょうか」
「エレオノーラと同じ業者にしろ」
その言葉に、侍女の表情がわずかに固まる。
アルバンはその変化を見逃すほど鈍くはなかったが、理解できるほど聡くはなかった。
「……かしこまりました」
ラングレイ家が取引している業者は数多い。
だがアルバンが今口にした相手は、その中でも別格だった。
王室御用達の取引先なのだ。
領地の特産品を王都へ流す際も、特別な品を調達する際も、優先的に便宜を図ってくれる。
それは伯爵家だからではない。
エレオノーラ個人との長年の信頼関係があって初めて成立している取引だった。
金さえ積めば動く相手でも、ましてや、突然現れた客人のために軽く扱えるような相手でもないのだ。
侍女は、それ以上を言及しなかった。
説明したところで、今のアルバンが理解するとは思えなかった。むしろ、エレオノーラの名と信用を、さらに軽く扱う口実を与えるだけだ。
いち使用人である自分にできることは、もう何もない――そう侍女は判断した。
「そうだ、ミレーヌにも専属の使用人をつけないとな」
「専属、でございますか?」
「そうだ。それも一人じゃ足りない。身の回りの世話をする侍女はもちろん、靴磨きや雑用をする者も含め、複数名つけるように。……彼女は傷ついているんだ。些細なことでもすぐに世話が焼けるようにしておかないとな」
アルバンは当惑する侍女を無視し、客間の扉を開けて廊下へと視線を向ける。
ちょうど二人のメイドが廊下を歩いてくるのが見えた。
一人はモップを抱えた清掃メイドで、もう一人は厨房から上がってきたばかりの給仕メイドだ。どちらも若く、まだ十代半ばといった年頃の娘たち。彼女たちならば、ミレーヌも心置きなく命を下せるだろう――アルバンはそう考えた。
「お前たち、ちょうどいい。今日からミレーヌの専属になれ」
「……え?」
「……はい?」
二人のメイドは同時に素っ頓狂な声を上げ、互いの顔を見合わせた。
「何をしている? 聞こえなかったのか?」
「で、ですが旦那様……わたくしは清掃しか……」
「わ、わたくしも給仕の経験しかございません……!」
二人の声は震え、視線は救いを求めるように侍女のほうへ泳いでいる。
「言い訳するな。やればできるだろう」
「――旦那様」
すかさず侍女が一歩、進み出た。
「その者達には、専属侍女に必要な技術と経験がございません」
「……なんだと?」
「そのため、お客様にご満足いただけるだけのお世話は、いたしかねます」
「できないだと……? エレオノーラは何をしているんだ! 使用人の教育すら満足にできないのかッ!」
アルバンの怒声が廊下に響き渡った。
怯えて震え上がるメイドたちを、アルバンの視界から隠すように、侍女がさり気なく扉の前に位置を変える。
「こんなこともできない者を雇っているなど、領主館の体を成していないではないか!」
「アルバン、やめて……! 私のために皆さんを責めるなんて……!」
彼女は怯えて隠れそうなメイドたちに向き直り、今にも泣き出しそうな表情で首を振った。
「ごめんなさい、私のせいで。私は、一人でも大丈夫だから……」
ミレーヌの健気に他人を気遣う様子は、アルバンの胸を深く抉る。
「君は何も悪くない! 悪いのは、君に不自由な思いをさせる連中だ! ……分かった。今夜は俺が君を正式にもてなす」
彼はミレーヌの手を握りしめ、決然と告げた。
「今夜の晩餐は、俺と君の二人だけで摂ろう!」
その言葉に、廊下にいた者たちが、息を呑んだ。
妻のいる屋敷で、夫が別の女性と二人きりで晩餐を摂る。しかも、そのために妻を自室へ下がらせる。
礼儀や体面以前の問題だ。
「エレオノーラが同席しては、君が萎縮してしまうからな。エレオノーラは自室で食べさせればいい」
彼は妻を食事の場から追い出すことを、まるで席次をひとつ入れ替える程度のことのように、軽々と口にする。
「晩餐室を使う。手配しろ」
侍女は一瞬、虚を突かれたように目を見開いたが、すぐに目元を伏せ、礼を取った。
「……奥様に確認いたします」
「確認だと? 俺がそうしろと言っているんだ! エレオノーラの出る幕など無いだろう」
「アルバン」
再び、ミレーヌがおずおずと口を開いた。
「……私はこちらでいただくわ。皆さんにも、ご迷惑をおかけしているみたいだし……」
「見ろ! こんなに気を遣わせているじゃないか!」
アルバンには、ミレーヌの嘆きだけが偽りのない真実に思えた。彼女の瞳を曇らせる全てが彼の神経を逆撫でる。
「俺の命令に従え! 今すぐ晩餐の準備だ! 誰にも邪魔はさせない!」
彼の怒号が廊下に反響する。
震える二人のメイドは逃げるように頭を下げて去っていき、残された侍女もまた、これ以上の押し問答は無用と判断したのか、「失礼いたします」と短く告げて足早にその場を離れた。
ミレーヌは逃げるように去っていく侍女の背中を見送りながら、そっとアルバンの袖口を掴んだ。
「ありがとう……アルバン。あなたがいてくれてよかった」
その言葉は、今の惨めな状況において彼が唯一手放せない万能薬だった。アルバンは荒い息を整えながら、ミレーヌの肩を抱き寄せる。
「任せておけ。俺が君を守る。誰にも邪魔はさせないから」
二人は客間へと戻っていった。
春の日差しが注ぐ廊下には、重苦しい空気と共に、屋敷の秩序を根底から覆す火種が静かに落ちていた。
書き溜めていないので、
よければ、ブクマで追っていただけると嬉しいです…!




