2.夫が初恋の未亡人を呼び寄せていたようです。妻である私に黙って
小サロンに、控えめなノックが響いた。
「来たか!」
アルバンはその音に顔を輝かせ、駆け寄らんばかりの勢いで扉へ向かっていく。
「アルバン?」
「ミレーヌだ!」
「…………はい?」
エレオノーラが状況を理解するのに数秒を要している間に、アルバンは子どものような勢いで小サロンの扉を開いた。
侍女に案内され、見知らぬ女性が室内へ入ってくる。
家族や親しい客だけが立ち入りを許される、領主館の私用階にある小サロンへ。
「ご客人をお連れいたしました――」
客人を伴ってきた侍女の声は平静を装っていたが、その目には可哀想なくらいの戸惑いが見て取れる。
エレオノーラが案じなくていいと示すように小さく頷くと、侍女はわずかに肩の力を抜いた。
(余計な気を揉ませてしまったわね。……さて――)
「ミレーヌ……!」
感極まったアルバンの声。
(彼女が『ミレーヌ・オルコット』で間違いないようね)
入ってきた女性の年の頃は二十六、七。
困窮した未亡人という言葉から想像されるよりもずっと、整った身なりだった。
濃紺のワンピースは上等な生地で仕立てられており、襟元のブローチには小振りな真珠があしらわれている。
肩にかかる亜麻色の髪は、旅の疲れなど感じさせぬほど丁寧に梳かれ、疲れた顔つきだけが、かろうじて彼女を「悲劇の未亡人」に見せていた。
「アルバン……!」
妻であるエレオノーラの前で、夫の名を呼び捨てる。
その距離感のなさに、エレオノーラを案じる使用人の間に緊張が走るが、当の本人たちに気づく気配はない。
このまま誰も止めなければ、二人は抱き合って再会を喜び合うのではないか――そう思わせるほど二人の距離は近かった。
「疲れてはいないかい? 道中、不自由はなかっただろうか」
「大丈夫よ、アルバン……迎えの馬車まで用意してくれたから、道中は何も困らなかったわ」
ミレーヌはアルバンの腕に身を寄せたまま、長い睫毛を伏せた。そこでようやくエレオノーラの存在に気づいたかのように、小さく息を呑む。
「アルバン、あちらの方は……?」
肩をすくめ、かすかに後ずさる仕草は、まるで叱られるのを怖がる子供のようだ。
「奥様……でいらっしゃるのね。……私、何か失礼を? その……少し……」
言葉はそこで途切れた。
だが、伏せられた睫毛と震える指先だけで、アルバンには十分だったらしい。
彼は不機嫌そうにエレオノーラを一瞥し、すぐに優しい笑みをミレーヌに向ける。
「気にするな、ミレーヌ。君は何も悪くないのだから」
「でも……」
ミレーヌは顔を上げず、ただ困ったように首を振りながら、胸の前で両手をぎゅっと握りしめる。弱く清らかな自分を全面に出した仕草だった。
「客間を用意してある。しばらくは何も気にせず、ゆっくり休むといい」
「……客間、ですか?」
エレオノーラは静かに口を開いた。
「彼女は使用人として迎える、というお話ではありませんでしたか?」
その言葉に、アルバンは怒りを顕にエレオノーラを振り返る。
「今ここでする話じゃないだろう!」
「必要な手続きの話です」
「いい加減にしろッ! 彼女は長旅で疲れているんだ! 君はそんなことも分からないのかッ!!」
怒声が小サロンに響くが、エレオノーラは髪の毛一本動かさない。
「休ませるためだけに置くのであれば、それは使用人とは言えません」
エレオノーラは息を乱すことなく、言葉を重ねる。
「そしてここは、ラングレイ伯爵領の領主が住まう屋敷です。明確な立場も理由もない平民を、私情だけで置くことは許容できません」
「平民を差別する気か!」
「公私の別をわきまえているだけです」
短い返答に、アルバンは一瞬、言葉を詰まらせた。
「領民の中には、領主家の暮らしが自分たちの納めた地代によって賄われている、と考える者もいます。その状況で、領主が契約も立場も分からない平民の女性を、私情で屋敷に滞在させていると知れれば、領民の不信を招き、統治の妨げとなります」
その先にある危うさを示すように、エレオノーラはミレーヌへ目を向けた。
「更に悪ければ――領主が権力を盾に、妙齢の女性を拐かしたと見られる危険性もあります。そうなれば、問題はラングレイ家だけではすまされなくなるでしょう」
拐かした、という言葉に、アルバンの表情がこわばる。
ようやく自分のしていることが、善意だけでは済まされるものではないと理解したのか。
それとも、そう見られる可能性を初めて想像しただけなのか。
「使用人として迎えるなら契約を。客人として迎えるなら滞在理由と期限を。どちらでもないなら、なおさら立場を明確にする必要があります」
アルバンは何かを言い返そうとしたが、エレオノーラはそれを待たなかった。
「――まして、事前の相談もなく私用階へ通すなど……本来あってはならないことです」
今度こそ、アルバンは口をつぐんだ。
小サロンに短い沈黙が落ちる。
(この人は、こんな人だったかしら。……いえ、今はそれより――)
今考えるべきは、夫への失望ではなく、既にアルバンが迎え入れてしまったミレーヌの処遇だ。
エレオノーラがそちらへ意識を向けた、その時だった。
「奥様……!」
タイミングを見計らっていたかのように、ミレーヌが待ち構えていた。
彼女は己を鼓舞するかのように胸の前で両手を握りしめ、悲壮な決意を秘めたと言いたげな眼差しをエレオノーラに向ける。
「どうか、アルバンをお責めにならないでください! 私が悪いのです。私が、アルバンの想いに甘えてしまったから――」
(……想い? ずいぶんと踏み込んだ発言をするのね。これが彼女の処世術かしら?)
ミレーヌはそこで、怯えたようにエレオノーラを見た。
「奥様がご不快に思われるのは、当然ですわ。突然、私のような者が入り込んできたのですもの。……でも、アルバンはただ、行き場のない私を放っておけなかっただけなのです」
かすかに震える声で、彼女は続ける。
「だから、どうか。私をお嫌いになるのは構いません。けれど、アルバンの優しさまで、悪いもののようにおっしゃらないでください」
「ミレーヌ――!」
まんまと術中に嵌ったアルバンは、感極まったようにミレーヌの肩へ手を伸ばした。そのまま彼女を庇うように半歩前へ出ると、怒りを滲ませた目でエレオノーラを振り返る。
「いい加減にしろッ! この家のことは、俺が決める!」
使用人たちは、アルバンの怒声にも、それを黙って聞き流すエレオノーラにも、どう反応すべきか分からずにいた。
「行こう、ミレーヌ。客間へ案内するよ」
アルバンが侍女へ目を向けると、侍女は一度エレオノーラを見て、その頷きを受けてから扉へ向かう。
その間も、ミレーヌはひたすらアルバンに縋り続けていた。
不安げにアルバンのそばへ身を寄せ、袖口に指先を添えるか添えないかの距離で、頼りない声を落とす。
「私、本当にここにいていいのかしら? 奥様……怒っているみたい――」
「気にしなくていい。俺がいいと言ってるんだから」
「アルバン……」
アルバンは自分の言葉を疑いもせず、ミレーヌを抱き寄せて侍女のあとに続いた。
◇
ミレーヌを連れて部屋を出て行くアルバンの背中を見送りながら、エレオノーラはひとつ、静かに息を吐いた。
「……マルタ、お茶を淹れ直してくれる?」
「かしこまりました」
新しい茶葉の香りが、小サロンへ広がっていく。
窓の外では、春の陽射しが変わらず芝生を照らしていた。何ごともなかったかのように、領主館は午後の時間を刻み続けた。
エレオノーラは、冷めた茶器へ目を落とす。
朝から選んだ茶葉も、甘さを控えた菓子も、窓辺に飾らせた花も。
彼は、何ひとつ見なかった。
見ようとしなかったのではない。
そこにあることすら、気づいていなかった。
胸の奥で、最後まで残っていたものが静かに離れていく。
期待だった。
まだ引き返せる……夫婦として向き合えるかもしれないという、愚かな期待だった。
エレオノーラは目を伏せ、静かに息を吐いた。
彼が変わったのか。
それとも、自分が見ないふりをしていただけなのか。
どちらでも、もう同じだった。
「とても……残念だわ」
書き溜めていないので、
よければ、ブクマで追っていただけると嬉しいです…!




