1.夫は初恋の未亡人を守りたいそうです。妻である私の屋敷で
「ミレーヌをこの屋敷に迎え入れることにした」
夫、アルバン・ラングレイがそう告げた瞬間、エレオノーラの指先が、茶器の取っ手に触れたまま止まった。
ラングレイ領主館のファミリーフロアにある小サロン。
やわらかな春の陽光が射し込み、磨き込まれた卓の上には、銀の茶器と焼きたての小菓子、淡い色の花が彩りを添える――春の午後のことだった。
「……ミレーヌさん、を?」
突然の発言に動揺したエレオノーラは、かろうじてそれだけを返した。
「分かってくれ、エレオノーラ!」
アルバンは、そんな彼女の動揺にも気付かず、悲劇のヒーローのような顔で、ミレーヌへの想いを語り始める。
「彼女は、夫を亡くしたばかりなんだ。これ以上、彼女を一人にすることなど……俺にはできない!」
ミレーヌの名は、これまでにも何度か聞いたことがあった。
端的に言ってしまえば、アルバンの初恋の女性だ。
政略で始まった自分たちとは、あまりにも違う綺麗な想い出の数々を、彼は語っていた。
彼に自覚があるのかないのか怪しいレベルでの話だったが。
過去の恋のひとつやふたつ、目くじらを立てる必要はないと思っていたのだ。
――この時までは。
「あの頃の俺には、ミレーヌを選ぶ力がなかった。だから今度こそ、間違えたくないんだ……っ」
切なげに震えるアルバンの声が、エレオノーラの耳朶を打つ。
(……私との結婚が――間違いだったと?)
夫として立とうとする彼を支えた年月は。
事業が軌道に乗るように、隣で静かに祈り続けた夜は。
彼が初めて『君のおかげだ』と微笑んでくれた日のことを、今でも大切に――。
(覚えて、いたのだけれど……)
「――…………」
エレオノーラの沈黙をどう捉えたのか、アルバンはほっとしたように息を吐いた。
「君なら分かってくれるだろう?」
(……分かる……? 何を……?)
別の女を守ると告げたあとで。
その女を選べなかった過去を、妻の前で悔やんだあとに。
何を、分かれと言うのか。
(冷静に、ならなければ。冷静に……ああ、そういえば――)
「……先日、お義母様からお手紙をいただきました」
アルバンの眉が、わずかに動く。
「母上から……?」
「ミレーヌさんが、クレイス伯爵家へ使用人として戻ることを望んでいらっしゃると書かれていました」
「……そうだ。だが、クレイス家へ戻れば、昔を知る者の目もある。未亡人になって出戻ったなどと噂されるより、俺の屋敷で休ませたいんだ」
『俺の屋敷』
その言葉に、側で控える使用人が動く気配を見せたが、エレオノーラはそれを目で制した。
この屋敷は、エレオノーラが両親から受け継いだ屋敷ではあるが、夫であるアルバンを蔑ろにしたいわけではない。
今もこうして『事前に相談』をしようとしているのだから、これは咎めるべき事柄ではない――エレオノーラはそう結論づけ、進めるべき手続きに意識を向けた。
そう考えたのは、先日届いた一通の手紙があったからだ。
『ミレーヌさんのことは、昔からよく知っています。
控えめで、素直で、アルバンの言葉に誰より寄り添える娘でした。
あの子と話している時のアルバンは、昔から穏やかな顔をしていたものです。
妻であるなら、夫が心を休められる場所を奪わないことも、大切でしょう』
美しい便箋に綴られていた言葉は、便箋ほどに美しくはなかった。
(使用人として迎え入れたくないか、嫁への嫌がらせ……かしらね)
「では、こちらで使用人として雇うということでしょうか」
アルバンの顔が怒りに染まる。
「使用人だと?!」
「違うのですか?」
(……なぜ怒鳴られたのかしら??)
エレオノーラは素朴な疑問を頭の端に追いやり、冷えかけた茶器を弄びながら静かに問い返した。
「お義母様のお手紙には、ミレーヌさんは『使用人として戻るおつもり』とありましたが?」
「彼女は夫を亡くしたばかりなんだぞ! それをお前は――!」
アルバンが怒りに頬を強張らせる一方で、エレオノーラは声ひとつ乱さない。
「どのような名目でこの屋敷に置くおつもりですか? 使用人でもなく、平民の――あなた個人の情を受けた女性を」
「ミレーヌを愛人呼ばわりする気か!」
アルバンの声が鋭く跳ね、小サロンの空気が止まる中、エレオノーラはほんのわずかに瞬きをした。
「――それは、何でしょう?」
「な……っ」
アルバンは一瞬、言葉を失った。自分が何を否定し、何に反応したのか、遅れて自覚したからだ。
「と、とにかく! ミレーヌはそんな女じゃない!」
「仰る意味が分かりかねます」
「……ああ、分かったよッ! ミレーヌを使用人として雇う! これで満足かッ!」
小サロンには、アルバンの怒声だけが虚しく響くのみだ。
「――では、雇用契約書を用意しましょう」
怒声の余韻が消えた頃、エレオノーラが静かに口を開いた。
執務扉近くに控えていた侍女頭エッダが音もなく一礼し、執務室へと消えていく。
「契約書など、後でいい!」
「後にはできません。使用人として迎えるのであれば、手続きは迅速かつ正確に。屋敷内の秩序を保つためです」
「彼女は傷ついているんだ! すぐに働かせるなど……君には人の心がないのか?!」
「先に申し上げておきますが、使用人の休暇には期限があります。長期にわたり労働を行えない使用人を置くわけにはまいりませんので」
「ミレーヌを使用人扱いするな! 俺が身分保証をすると言ってるだろう!」
アルバンの声が、また一段と鋭くなる。
その一言で、エレオノーラはすべてを悟った。
(ああ……そういうことなのね)
使用人として雇うと言った舌の根も乾かぬうちに、使用人扱いをするなという。
彼はただ、傷ついた初恋の女性をそばに置き、妻に支えられながら、そのすべてが美しく収まる都合のいい生活を夢見ているだけなのだろう。
「……はぁ。君は少し、伯爵夫人という立場に甘えすぎているんじゃないか?」
(…………は?)
呆れたと言わんばかりの言葉に、サロンの空気が凍りつく。
「君は俺の妻だろう? 俺が決めたことに従うのが君の義務じゃないのか?」
今までも、時折、子供じみた夢想家な面を見せることはあったが、ここまでひどくはなかった。
今、彼が持ち出す妻は、まるで都合の良い使用人だ。
(自覚がないの……?)
「……分かりました」
エレオノーラの返答に、アルバンの表情がわずかに緩む。
「分かってくれればいいんだ。……ミレーヌは傷ついている。だからこそ、俺が守ってやらなきゃならないんだ」
(守る……? 私は、守ってもらったことって、あったかしら……?)
守らなければならない――その相手は、エレオノーラではなかったのだ。
最初から。
「到着はいつですか」
アルバンは、ようやく満足したように肩の力を抜いた。
エレオノーラの反論が終わったと思ったのだろう。あるいは、彼女が受け入れたと。
「もう来ている」
使用人たちが息を呑んだ。
エレオノーラも思わずぱちくりと瞬きをする。
「……もう、来ているのですか?」
「馬車を手配していたからな。彼女は繊細なんだ……傷ついた彼女に付け入ろうとする悪漢が現れたら大変だろ?」
(悪漢より先に、妻への相談もなく屋敷へ女性を連れてきた夫の方が、よほど厄介ではないかしら)
「……これは相談ですらなかったのですね」
エレオノーラの小さなつぶやきは、美しい想い出に身を委ねているアルバンの耳には届かない。
彼は妻の許可を得るためではなく、妻に受け入れさせるためだけに、この場にいたのだ。
「とにかく、もう決めたことだ。君も、これ以上わがままを言わないでくれ」
(わがまま……? 私が…………?!)
使用人が息を呑み、エレオノーラの専属侍女マルタが思わず一歩、前へ出る――。
だが、エレオノーラはわずかに視線を向け、それを制する。
「……もう、いいわ」
小さな声だった。
自分に言い聞かせるようで、使用人たちをなだめる声でもあった。
アルバンの声音には、悪意も迷いも罪悪感もない。
彼にとってこれは、善意なのだろう。
困っている昔馴染みに手を差し伸べ、過去に選べなかった女を今度こそ守るという美しい決意。
だから妻は、頷くべきだと。
部屋を整え、茶を出し、微笑んで迎えるべきだと。
ある意味、合ってはいたのだ。
それが彼の資産に基づいた行いであったなら。
春の光は、変わらず明るい。
夫と過ごすために整えられた小サロンは、何ひとつ乱れていない。
朝から選んだ茶葉。
調合に手間取った、甘さを控えた焼き菓子。
彼が疲れていても目に障らないようにと、淡い色だけを選んだ花。
彼を想い整えたささやかな午後が、何ひとつ彼の目に入らないまま、足元で静かに壊れていた。




