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4.夫は初恋の未亡人をもてなしたいそうです。妻である私を晩餐室から追い出して

 




 ――夕刻、エレオノーラは執務室に戻っていた。


 机の上には、エッダが用意した雇用関係の書類が整然と並んでいる。けれど、ペンを執る手は止まったままだった。

 アルバンが、ミレーヌの処遇を曖昧にしたままだからだ。


 コンコン、と控えめなノックの音が響く。


「入って」

「失礼いたします」


 入ってきたのは、持ち場へ戻ったはずのエッダだった。

 その声には、抑えきれない怒りが滲んでいる。



 そんな怒りに燃える彼女の口から語られたのは、


『アルバンがミレーヌを、本来賓客しか通さない黒胡桃の客間へ案内したこと』

『ミレーヌの身の回りの品を、エレオノーラが使用している王室御用達の取引先に用意させろと命じたこと』

『ミレーヌ付きの専属侍女を複数名求め、給仕や清掃担当の女中にその任を充てようとして、一悶着起こしたこと』


 ――という、にわかには信じがたい内容だった。


 一瞬、エレオノーラはエッダが何を言っているのか理解できなかった。


「……まず、その部屋しか空いていない、ということはないわよね?」

「はい」

「そうよね……他の客間に問題があるわけでもないわよね?」

「当然でございます」


 エレオノーラの知らない来客があるはずもない。

 ほかの客室に異常があれば、エッダが把握していないはずも、黙っているはずもなかった。


「……メイドたちは、制服を間違えていたのかしら?」

「いえ、そのようなことはありえません」

「……そう、よね」


クレイス家(アルバンの実家)の制服はもっと違いがあったかしら……?)


 エレオノーラは数回しかクレイス家に行ったことがないが、女中や厨房メイドの姿は見ていた。この屋敷で使用している制服と、さほど違いはないように記憶している。己の記憶に自信がなくなってくる。


「清掃や給仕の者には職分が違うと申し上げましたが、旦那様はお聞き入れくださいませんでした」

「……そう」

「奥様の差配についても、いくらか」


 エッダはそこで言葉を切った。

 それ以上を口にするのは、報告ではなくなると判断したのだろう。


 エレオノーラは小さく息を吐く。


(使用人の不手際ではなく、私の不手際にしたいのね)


 疲れを覚えつつ、エレオノーラはアルバンの残りの希望である『王室御用達の取引先』について考えを巡らせる。


 ――一言で言ってしまえば問題外だ。

 今のアルバンの様子を見る限り、長年懇意にしてくれた取引先へ多大な迷惑をかけてしまうことは想像に難くない。ないとは思うが、外部に醜聞が漏れるようなことは、絶対に避けねばならない。




「――それだけではありません!」

「他にもあるの?」


(エッダの侍女頭の仮面が崩れてきたわ……彼女も、私と同じ程度には、アルバンを信じていたのかしら)


「旦那様が、今夜の晩餐についてとんでもないご命令を――」

「聞かせて頂戴」


 エレオノーラは静かに視線を上げ、笑みを浮かべて先を促した。

 主の余裕さえ感じられる微笑みに、エッダの怒りも少しは凪ぐかと思ったが――ならなかった。


「ご客人と旦那様のお二人で晩餐をお取りになるため、奥様には自室でお召し上がりいただくように、と……」

「あらまあ」


 息を呑んだのはマルタだけではない。

 業務報告のため執務室にいた家令グレアムも同じく、眉間に皺を寄せた。


「晩餐室は、旦那様方でお使いになりたいとの仰せです」

(晩餐室を……ねぇ)


 胸の奥に残っていたものが、静かに冷えていく。


 まだ夫への期待が完全には消えずにいた自分に気づき、エレオノーラは呆れてしまった。

 彼がミレーヌを招いたのも、過去の感傷に流されただけだと。

 冷静になれば、正しい判断を下してくれると。


 そう、期待していたのだ。


 だが現実は違った。

 彼の認識は、ここまで歪んでいた。


「……分かったわ」


 エレオノーラの瞳には、もう揺らぎはない。

 彼女には、この屋敷と領地を守る責任がある。


「晩餐室は通常どおり使用します」


 エッダが目を見開いた。すぐに深く息を吐き、強張っていた肩を落とす。

 隣のマルタとグレアムからも、同じように安堵した気配が伝わってきた。


「ミレーヌさんの食事は客間へ。……もし」


 エレオノーラは言葉を切り、冷ややかな光を湛えた瞳でエッダを見据えた。


「アルバンが共に取るというなら、彼の食事も客間へ。彼が客間でミレーヌさんと食事をしたいと言うなら、それを禁ずる理由は……()()ありません」


「かしこまりました」


 背筋を伸ばし、エッダは深く頭を下げた。

 その姿を見て、執務室の扉の外で控えていた他の使用人たちもまた、静かに一礼する。


 その一礼が、混乱に包まれかけていた執務室に、凛とした秩序を取り戻していく。




 エレオノーラは窓の外へ視線を移した。

 春の夜風が木々を揺らし、静かに庭園を吹き抜ける。


 アルバンの叫びもミレーヌの悲劇の仮面も、今は遠い喧噪に思えた。







 ◇◆◇



 春の宵闇が窓外を包み始めた頃、ラングレイ領主館の晩餐室には、柔らかな燭台の灯りが揺れていた。


 磨き抜かれた長テーブルの上座に、エレオノーラは静かに座している。白いテーブルクロスの上には銀の燭台が等間隔に並び、前菜の皿が給仕の手によって静かに下げられたところだった。


(今夜は仔羊のローストかしら。香草の加減がちょうどいいわね)


 エレオノーラはワイングラスに手を伸ばしながら、明日の予定を頭の中で整理していた。春の播種期を前に、農地の割り当てと種子の配布計画を最終確認しなければならない。隣村との水利権の更新もある。

 静かな晩餐だった。

 本来ならば向かい側に座るべき夫の席は空いているが、その不在がむしろ、この場に落ち着きをもたらしていた。

 給仕たちもどこか安堵した様子で、音もなく次の皿を運んでいる。




 その静寂を、唐突に破る者がいた。

 廊下から聞こえてくるのは、遠慮のない足音と、抑えきれない怒気を孕んだ声。


 ――「なぜだ! なぜ俺の命令どおりにしていない!」


 遠くから聞こえてくる声に、給仕の手が一瞬止まり、壁際に控える侍女たちの間に緊張が走る。


 だがエレオノーラは動じない。

 ゆっくりとグラスをテーブルに戻し、ナプキンで指先を拭い、扉を一瞥するが――。


「――次の皿を」

「かしこまりました」


 控えていた給仕長が一礼し、給仕たちはすぐさま平静を取り戻した。




「――エレオノーラ!」


 アルバン・ラングレイが、怒りに顔を紅潮させて晩餐室に踏み込んできた。

 その背後では、今にも泣き出しそうな表情のミレーヌが、アルバンの腕へ庇護を求めるようにしがみついていた。


「なぜ命令どおりにしない! ミレーヌの食事を客間へだと?! 俺は晩餐室で彼女をもてなすと言ったはずだ!」


 怒声が高い天井に反響する。

 壁際の侍女がびくりと肩を震わせ、給仕長が無言のまま一歩、エレオノーラを庇う位置へ動いた。

 しかしエレオノーラはただ静かに、口元を拭い、夫を見上げた。


 予想どおりの展開に、口角が上がる。


「面白いことをおっしゃるのですね」


 エレオノーラの薄い微笑みにアルバンは一瞬気圧されそうになるが、


「ふざけるな! 俺の命令が聞けないのか?!」


 ミレーヌの手前、引けないとでも考えているのか――卓を拳で叩き、銀器を震わせて威勢を示す。


「妻なら! 夫である俺の顔を立てるのが礼儀だろう!」

「――顔を立てる?」


 エレオノーラの眉が微かに動いた。


「どなたの顔を、何故(なにゆえ)、立てろと?」

「エレオノーラ!」


 知性の欠片もなく、声を荒げるだけのアルバンに、エレオノーラはこれ以上言葉遊びをする気が失せた。



「――アルバン」


 低く、はっきりとした声だった。


「立場の定まらない彼女は、あなたが勝手に連れてきた不審者でしかありません」


 その一言に、ミレーヌの肩が、恐怖を訴えるようにびくりと跳ねた。

 傷ついた獲物のように小さくなり、アルバンの背後で震えるだけのミレーヌを一瞥し、エレオノーラは冷え冷えとした眼差しを夫へと戻した。


「客間を許しただけで、十分に譲歩しています」


 アルバンは呆然とした。

 そんな彼を置き去りにして、エレオノーラは言葉を続ける。


「そして――ラングレイ家の序列を、得体の知れない者のために改めるつもりはありません」


 淡々とした事実の指摘だった。

 晩餐の席次は屋敷内の序列で定められている。エレオノーラは、それを改めるつもりはない、とアルバンへ宣言した。


 少々強い意思表明ではあったものの、エレオノーラは彼を即座に切り捨てるつもりはなかった。しかしこれ以上、彼の愚策に付き合うつもりもない。


 話は終わりだと言わんばかりに給仕長へと視線を送ると、


「彼らを案内してあげて」

「かしこまりました」


 エレオノーラの関心はすぐに、新しく運ばれてきた料理へと移っていった。


 彼女の指示を受け、給仕長は食卓の脇に留まり、警衛長は扉の前へと進み出る。


「客人には客間でお膳をお出ししております。どうかそちらへ」


 警衛長の所作は丁寧だった。丁寧に――扉の外へ手を差し向けていた。

 それが何を意味するのか、さすがに理解したアルバンは一瞬、声を失った――


「奥様……! これはひどいのではないでしょうか……?!」


 ――ミレーヌの口からか細い嗚咽が漏れるまでは。



「私……私は、そんなつもりで来たのではありません……! ただ、アルバンが……放っておけないと、そう言ってくれたから……!」


 ミレーヌの震える声は、アルバンの中に残っていたためらいを、たやすく怒りへ変えた。


 彼女を傷つけたのは誰だ? エレオノーラだ。

 彼女を不審者扱いしたのは誰だ? エレオノーラだ。

 彼女から居場所を奪おうとしているのは誰だ? ……エレオノーラだ!



「ミレーヌをここまで追い詰めて、満足か! 君という人は……!」

「――アルバン」


 エレオノーラはナプキンで口元を軽く押さえ、淡々と告げた。


「食事の席です。声を荒げるのはお控えになっては?」


 穏やかな声だった。

 だが、その穏やかさの底には、明らかな拒絶があった。

 まともに怒る価値すらないと告げられたようで、アルバンの胸に深く突き刺さる。


「この……!」

「旦那様」


 給仕長が、静かに声をかけた。


「これ以上は、晩餐の妨げとなります」


 扉の前に立つ警衛長が、わずかに身を引いて道を示す。


 アルバンは違和感を覚えた。


 なぜ、誰も自分を見ない。

 なぜ、誰も自分の命令を待たない。


 この屋敷の者たちは、ずっと自分に従っていたはずだった。

 それなのに今は、示し合わせたようにエレオノーラの側へ立っている……?



 まるで、最初からそうであったかのように――。


「アルバン、もういいわ」


 自分の手に改めて重ねられた温もりに、アルバンはミレーヌを振り返った。


「私なら大丈夫。客間でいただきましょう?」

「だが――」

「あなたが私のために苦しい思いをするなんて、耐えられないわ……」


 健気なミレーヌの様子に、アルバンは言葉を詰まらせる。


 晩餐室に残りたい。

 自分の命令が通らないまま引くなど、到底受け入れられない。

 けれど、ここでなお食い下がれば、ミレーヌをさらに晒し者にするだけだった。


 認めたくはない。それでも今は、引くしかない。


「……行こう」


 そう言うより先に、ミレーヌが彼の腕を取った。

 アルバンはその手に引かれるように、晩餐室を後にした。


 二人の背中を見送る使用人たちの視線は冷ややかだった。




 扉が閉まり、晩餐室には再び静寂が戻った。

 エレオノーラはフォークを口へ運び、晩餐の続きを静かに味わった。


 仔羊のローストは絶品だった。香草の風味が肉汁と溶け合い、口いっぱいに広がる春の薫り。


 窓の外では宵闇が深まり始めている。

 それでも、彼女の瞳に迷いはなかった。












書き溜めていないので、

よければ、ブクマで追っていただけると嬉しいです…!

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