間話 『分岐点』
「……」
汚れを見逃さないように純白に塗られた壁、気分が悪くなる程に強く鼻を刺す消毒液の匂い。
そこは病院であった。
先日、富山で作戦に従事していた俺宛に一通の電報が送られてきたのだ。
宛名は東大医科病院。
その内容を見た瞬間、世界から音が消えた。
同時に居ても立ってもいられず手紙1つ握りしめて新幹線に乗り込んだ。
カツカツという軍靴が床を蹴る音が、静寂に包まれた院内に虚しく木霊する。
向かう途中ですれ違った人物はどこか目が虚ろでどこか浮世離れした雰囲気を醸し出していた。
楽園症───
数ヶ月前に爆発的に広まった「夢を見続ける」奇病。
ここは罹患者を纏めて管理するために急造された病棟だそうだ。
逸る気持ちを抑えこみ、目の前の看護師の後ろを付き従う。
なぜそんな所に来ているのか
その理由は最早ひとつしか無い……
「こちらです」
看護師の言葉がやけに遠くに聞こえた。
扉が開く。
信じたくない、見たくない、間違であって欲しい。けれど直視しなければならない現実。
それが今、目の前にあった。
「あ、悠哉くん。来てくれたんだ……」
薄い青の病衣にその身を包み、上半身だけを寝台に起こしこちらに微笑みかける少女。
肩までかかる黒の長髪に色白でありながらも不健康に見えない柔肌。どこか儚げでこの世のどんな物よりも美しい、そう思える笑顔。
焦点の合わない虚ろな瞳。
「陽菜……」
かつて自分が誰よりも愛した女性が、変わり果てた姿でそこには居た。
五体満足、何ひとつとして不自由のない身体。
最後に見た時と何ひとつとして違わない。
目の前にいるのに、今では永遠に出会えないと思える程に遠い。
全身から力が抜けた。
隣で見ていた看護師が慌てて支えようと手を差し伸べてくるが、最早立ち上がる気力も残って居なかった。
どうしてあの時帰らなかったのか
俺が隣に居れば何かできたのかもしれない
なにもできなかった
変わらない
「ッ……!!」
取り返しのつかない後悔がキリキリと胸を締め上げる。
それでも陽菜は目の前にいて、朗らかに笑っている。俺の知らない、どこか遠くの楽園を見つめながら。
気づけば陽菜がこちらのことを心配そうに見つめていた。
「悠哉くん、凄い疲れてるみたいだよ?」
その言葉に一瞬だけ希望を抱いた。
もしかしたら、診断は間違いなのかもしれない、と。
しかし、何度見ても彼女の瞳が俺を捉えることはなかった。
「……あぁ、心配させたな」
「それはこっちのセリフだよ。ごめんね、ちょっと貧血で倒れちゃっただけだから」
そう言って、陽菜は明るく笑う。
彼女の夢の中にも俺は傍にいるのだろう。
僅かな希望に縋って看護師に治療法は無いのかと尋ねた。
返ってきたのは、首を横に振る静かな否定であった。
対症療法すら存在しない、その事実が遅ればせながら途方もない喪失感を突き付けてくる。
「ごめん……」
震える声で絞り出した言葉は自分ですら聞こえない程にか細いものだった。
懺悔と後悔の念が尽きることなく感情を、思考を蝕んでいく。
それでも、今の俺にはただ謝ることしかできなかった。
「あの……」
どれ程の時間が経ったか、背後からかけられた声で我に返る。
同じような人物を何度も見てきたのであろう、その声にはどこか悲しげで申し訳なさを孕んでいた。
「手を、握ってあげてください。医学的な証明は無いんですけど……人の温もりは楽園症の人に一番伝わってると思うんです」
その言葉の意味を理解するのにしばらく時間がかかった。理解して、躊躇った。
この手は後戻り出来ないほどに血に濡れてしまっている。
283人、直接この手にかけた。
触れるのを恐れた。
陽菜の夢だけでも幸せであって欲しかった。
そんな意思に反して、身体は自然と陽菜の手を握りしめていた。
「……俺はどうすれば良かったんだ」
握りしめた手はガラス細工のように繊細で、強く握れば壊れてしまいそうだと、そう思った。
聞こえていない、だからこそ口から漏れ出てしまった言葉。
疲れきっていた、繰り返される惨劇に。
終わることのない戦争に、意味を求めてしまった。
そんな俺を見て、陽菜はずっと笑っていた。
俺の知らない「俺」を見つめて、ただじっと見つめ続けていた。
「家に帰ろうか、一緒に」
陽菜の口から紡がれたその言葉は、今まで聞いてきたどんな物よりも優しく、胸に響いた。
優しく握り返される手は、とても暖かい。
「そうか……そうだな」
戻るべき場所は戦場じゃない。
陽菜を守る
命を、人生の全てをかけて陽菜の幸せを守り続ける。
これは償いだ
これで赦して貰えるとは思っていない。
赦して貰おうとも思わない。
これがどれ程身勝手な事か。そんな事は自分が誰よりも気づいている。
それでも……
そうしなければ……
こころがこわれてしまうから
「帰ろうか、俺達の家に」
虚ろな瞳にはただ愛しい人だけが映っていた。




