一人で立つ畑
翠微が一人で畑に立っている。朝の光が三つ編みの黒髪を銀色に縁取り、農家育ちの日焼けした頬に柔らかな影を落としていた。
麗華は修行場の端——十歩ほど離れた場所に座って、見守っていた。膝の上には帳面と筆。師として記録を取る務めだが、今はその筆を握る手に力が入っている。今日の課題は、翠微が一人で地養術を施すこと。師の補助なし、一人きりの修行だ。
朝靄が畑に薄く漂い、苗の葉先に露が光っている。修行用の小さな畑——十坪ほどの一画に、冬小麦の苗が青々と並んでいた。
翠微が膝をつき、両手を土に当てた。
目を閉じる。
「……聞こえますか」
翠微の唇が動いた。声は小さい。穀物に——いや、大地に話しかけている。
「力をください。この子たちに——届けたいんです」
指先が翡翠色に光り始めた。
麗華は息を詰めて見守った。翠微の光は安定している。かつて穀物を枯らしたときの暴走的な輝きとは違う。穏やかで、揺らぎのない光。
光が指先から土に沁みていった。
数秒の沈黙。
冬小麦の苗が——震えた。
根元から何かが通ったかのように、苗の一本一本が微かに揺れる。風のせいではない。内側から押し上げられるような動き。
そして——色が変わった。
冬枯れに備えて淡い緑だった葉が、鮮やかな濃い緑に変わっていく。枯れかけていた先端が瑞々しさを取り戻し、茎がほんの少し太くなった。
翠微が目を開いた。
振り返る。
満面の笑みだった。
「先生——できました!」
麗華は立ち上がった。畑に降り、苗を一本一本確認する。
根がしっかりと土を掴んでいる。葉に弾力がある。霊脈の力が——確かに穀物に届いている。
「よくやった」
声が静かに震えた。麗華自身でも驚くほどに。
「先生、あたし——もっとやれます!」
翠微の目が輝いている。朝の光を受けて、茶色い瞳がきらきらと動く。
「今日はここまでだ」
「えっ、もっと——」
「力を使い切るな。地養術は体力を消耗する。お前の体がまだ慣れていない以上、無理をすれば倒れる」
翠微が少し不満そうな顔をした。だが麗華の言葉に嘘がないことは分かっているのだろう、素直に頷いた。
「はい。じゃあ——明日、もっとやっていいですか」
「ああ。明日もやりなさい。毎日やりなさい」
「はいっ」
翠微が跳ねるように修行場を出ていった。
一人になった麗華は、畑の中央にしゃがみ込んだ。
翠微が地養を施した苗を、手で触れる。
(力は確かに届いている。だが——)
麗華が施す地養とは、微妙に違う。麗華の地養は穀物に「力を注ぐ」感覚だ。霊脈の力を手のひらに集め、根を通じて穀物に送り込む。上から下への一方通行。
翠微のそれは——違う気がする。翠微は穀物に「話しかけていた」。力を注ぐのではなく、対話するように。
(聞こえますか。力をください。この子たちに届けたいんです)
翠微は霊脈に「お願い」していた。霊脈の力を無理に引き出すのではなく、霊脈に協力を求めていた。
(この子の術は——)
麗華は地面に手を当てた。霊脈の脈動を感じる。穏やかな流れ。だがその流れの中に、微かな余韻が残っている。翠微が触れた痕跡だ。
その余韻は——温かかった。
(私が注いだ力は、穀物を「従わせる」。翠微の力は、穀物に「寄り添う」——)
同じ結果に見えるが、過程が違う。そしてその違いが、いずれ大きな差を生むかもしれない。
昼になった。
麗華は翠微を自室に呼び、地養で育てた苗を確認しながら昼食を取った。
卓の上に並んだのは、地養穀物の白飯と季節の根菜の煮物。麗華が朝のうちに出汁を引いて煮込んでおいた蕪と人参が、とろりと柔らかく崩れている。
「先生の煮物、おいしいです」
「食べなさい。体を使った日は、たくさん食べなさい」
翠微が白飯を頬張る。一口食べて、目を細めた。
「このお米、すごく元気ですね。嬉しそうな味がする」
「嬉しそうな味?」
「はい。地養のお米って、味が違うんです。普通のお米は黙ってるけど、地養のお米は——歌ってる感じ」
麗華は箸を止めた。
(この子は——食べることでも、穀物の声を聞いている)
地養術の施された苗が青々と輝く姿を、麗華は脳裏に刻んだ。翠微の力は確かに育っている。一人で立てるようになった。
だがこれは始まりに過ぎない。
(この子にもっと教えたい。育てる力だけでなく——聞く力の真の可能性を、この子と一緒に探りたい)
「先生。明日も頑張ります」
翠微が箸を置いて、真っ直ぐに麗華を見た。
「ああ。頑張りなさい」
麗華は穏やかに笑った。
食後、翠微は修行場の片付けをしてから帰っていった。「明日も頑張ります!」と走り去る後ろ姿は、半月前に怯えながら修行を始めた少女とは別人のようだった。
麗華は窓辺に立ち、冷めた茶を啜った。
修行場の小さな畑が見える。翠微が地養を施した冬小麦の苗が、午後の光の中で青く輝いている。その輝きは麗華が施す地養とは微妙に色味が違う——翠微の光は揺らぎがあって、どこか優しい。
窓の外で、夕陽が修行場の畑を染めている。翠微が地養した冬小麦の青い苗が、赤い光を浴びて不思議な紫色に輝いていた。
暁風が夕方の巡回から戻ってきた足音が廊下に響いた。
「麗華殿。翠微はどうだった」
部屋の前を通りかかった暁風が、立ち止まって訊いた。
「一人で成功した」
「そうか」
暁風が微かに笑った。この男が笑うのは珍しい。
「あの子は——強くなったな」
「ええ。私の自慢の弟子です」
麗華がそう言ったとき、自分の声が柔らかいことに気づいた。後宮で身につけた冷静な声色ではなく——素のままの、温かい声。
暁風がそれに気づいたかどうかは、分からない。「そうか」とだけ言って、廊下を去っていった。
窓の外で、土から芽吹く命の力強さが——食卓にまで届いているようだった。




