表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

97/128

どこまで教えるか

 三日後、老太爺の体調が戻った。


 朝から庭の畑に出て土に触れ、杖をついて修行場まで歩いてきた。足取りはゆっくりだが、目に力が宿っている。秋の空気を胸いっぱいに吸い込む姿に、麗華はひとまず安堵した。顔色は完全には戻っていないが、目に力が戻っている。


「祖父様。今日は——ご相談があります」


 麗華は老太爺の居室に茶を運び、向かい合って座った。最上級の龍井茶を丁寧に淹れる。湯の温度を見極め、茶葉を急須に入れ、ゆっくりと注ぐ。透き通った緑色の茶が、白い茶碗に流れ込んだ。


「いい茶だな。色が深い」


「祖父様のために取っておいたものです。今年の春に摘んだ一番茶を、日陰で丁寧に乾燥させたもの」


 老太爺は茶碗を両手で包み、香りを嗅いだ。


「……この香り。昔を思い出す」


「昔?」


「若い頃に飲んだ龍井茶は——もっと香りが強かった。霊脈の力が茶の葉にも宿っていた時代だ。今の龍井茶も良い物だが、昔の一煎には遠く及ばん」


 また、百年前の話だ。老太爺の記憶の中にある「昔」は、祖父自身の体験ではなく、父から受け継いだものだろう。だがその記憶の鮮明さは、まるで祖父自身が見てきたかのようだった。


「祖父様。ご相談というのは——翠微のことです」


「うむ」


「翠微にどこまで教えるべきでしょうか」


 麗華は真っ直ぐに祖父を見た。


「基礎は教えました。聞く力の検証も済みました。ここから先は——秘伝の核心に踏み込むことになります。育てる力の奥義、霊脈の操作法、そして……祖父様が私に教えてくださった、全て」


 老太爺は茶を一口飲んだ。


「全てを教えるか」


「はい。そうすべきだと考えています」


「なぜだ」


「一人では足りないからです」


 麗華の声が静かに震えた。


「私が地養術の唯一の継承者である限り、この術は私の体一つに依存しています。私が倒れれば術は途絶える。廃妃になったとき——一人で全てを抱え込むことの危うさを、身に沁みて分かりました」


 老太爺は黙って聞いていた。


「翠微には素質がある。私とは異なる系統の力ですが、地養術の後継者としての資質は十分です。この子に——全てを託す覚悟が必要だと思っています」


 長い沈黙が落ちた。


 老太爺は茶碗を卓に置き、窓の外を見た。午後の光が庭の畑を照らしている。


「お前が決めることだ」


 突き放すような言い方だった。


 だが——老太爺の目に安堵の光が浮かんでいた。


 麗華はそれを見逃さなかった。


「祖父様。なぜ——安堵しているのですか」


 老太爺が微かに目を見開いた。見透かされたことに驚いたように。


「……分かるか」


「祖父様の目は嘘がつけません」


 老太爺はため息をついた。深い、長いため息だった。


「お前がそれを悩んでくれること自体が——嬉しいのだ」


「嬉しい?」


「わしは——長い間、秘伝を閉じておくことが正しいと信じてきた。鳳家の秘伝は門外不出。それが代々の掟であり、当主の務めだと。だが——」


 老太爺の声が低くなった。


「閉じたことで——失われたものがある。お前にはまだ話していないが……いずれ話す。閉じることの代償を」


「祖父様——」


「今はいい。お前が『開く』ことを選んだ。それだけで——わしは救われる気がするのだ」


 老太爺は茶碗を手に取り、残りの龍井茶を飲み干した。


「翠微に全てを教えなさい。お前のやり方で」


「はい」


「ただし——急ぐな。あの子はまだ若い。秘伝の重さを知らぬまま全てを注げば、潰れる」


「分かっています」


「分かっているなら、よい」


 老太爺は微笑んだ。穏やかな——だがどこか寂しげな笑みだった。


 麗華は祖父の居室を辞した。


 庭に出ると、秋の風が吹いていた。畑の穀物が黄金色に輝き、風に揺れている。収穫の季節が近い。


(全てを教える——)


 覚悟は固めた。祖父の安堵の光を見たとき、胸の中でずっと張り詰めていた糸が一本、緩んだ気がした。だが麗華は知っていた。自分が翠微に教えられるのは、自分が知っている「全て」に過ぎない。


 そして鳳家の秘伝の「全て」を——麗華自身がまだ知らない。


 先々代の当主が秘伝書に書き残した一文が、頭をよぎった。


「この術を閉じたのは、守るためではない」


 守るためではないなら——何のために?


 老太爺の安堵の裏には、長い罪悪感が横たわっている。秘伝を「閉じた」ことへの——後悔。


(祖父様。あなたが全てを話してくださる日を——待ちます)


 麗華は空を見上げた。秋の空は高く、薄い雲が流れている。


 全てを教える覚悟を固めた。だがその「全て」の外側に——麗華がまだ知らない、巨大な秘密が眠っている。


 翠微に教えることで——いつか、その秘密にも辿り着くのかもしれない。


 だが焦りはない。焦りは昨日までのものだ。


 祖父の安堵を見た。あの目に——麗華は救われた。秘伝を「開く」ことが、少なくとも祖父にとっては正しい選択であること。それが分かっただけで、足は軽くなった。


 修行場に着くと、翠微が土の上に座り込んで目を閉じていた。朝の自主練だ。指先が翡翠色に光り、畑の穀物が微かに揺れている。


「先生!」


 翠微が麗華に気づいて駆け寄ってきた。


「今日の畑、すごく元気です。昨日の水遣りが効いたみたいで——穀物がみんな上機嫌です」


「上機嫌か。お前の報告は相変わらず感覚的だな」


「えへへ」


 翠微が照れくさそうに笑った。


 麗華はその笑顔を見つめた。この子に——全てを教える。祖父から受け継いだもの、自分が磨いたもの、そしてまだ見ぬ可能性の全てを。


「翠微。今日から、修行の内容を変える」


「えっ」


「秘伝の核心に入る。覚悟はいいか」


 翠微の目が真剣になった。一瞬の間を置いて——力強く頷いた。


「はい。お願いします、先生」


 麗華は修行場に向かった。翠微が隣を歩いている。秋の風が穀物の穂を揺らし、金色の波が畑の端から端へと走っていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ