どこまで教えるか
三日後、老太爺の体調が戻った。
朝から庭の畑に出て土に触れ、杖をついて修行場まで歩いてきた。足取りはゆっくりだが、目に力が宿っている。秋の空気を胸いっぱいに吸い込む姿に、麗華はひとまず安堵した。顔色は完全には戻っていないが、目に力が戻っている。
「祖父様。今日は——ご相談があります」
麗華は老太爺の居室に茶を運び、向かい合って座った。最上級の龍井茶を丁寧に淹れる。湯の温度を見極め、茶葉を急須に入れ、ゆっくりと注ぐ。透き通った緑色の茶が、白い茶碗に流れ込んだ。
「いい茶だな。色が深い」
「祖父様のために取っておいたものです。今年の春に摘んだ一番茶を、日陰で丁寧に乾燥させたもの」
老太爺は茶碗を両手で包み、香りを嗅いだ。
「……この香り。昔を思い出す」
「昔?」
「若い頃に飲んだ龍井茶は——もっと香りが強かった。霊脈の力が茶の葉にも宿っていた時代だ。今の龍井茶も良い物だが、昔の一煎には遠く及ばん」
また、百年前の話だ。老太爺の記憶の中にある「昔」は、祖父自身の体験ではなく、父から受け継いだものだろう。だがその記憶の鮮明さは、まるで祖父自身が見てきたかのようだった。
「祖父様。ご相談というのは——翠微のことです」
「うむ」
「翠微にどこまで教えるべきでしょうか」
麗華は真っ直ぐに祖父を見た。
「基礎は教えました。聞く力の検証も済みました。ここから先は——秘伝の核心に踏み込むことになります。育てる力の奥義、霊脈の操作法、そして……祖父様が私に教えてくださった、全て」
老太爺は茶を一口飲んだ。
「全てを教えるか」
「はい。そうすべきだと考えています」
「なぜだ」
「一人では足りないからです」
麗華の声が静かに震えた。
「私が地養術の唯一の継承者である限り、この術は私の体一つに依存しています。私が倒れれば術は途絶える。廃妃になったとき——一人で全てを抱え込むことの危うさを、身に沁みて分かりました」
老太爺は黙って聞いていた。
「翠微には素質がある。私とは異なる系統の力ですが、地養術の後継者としての資質は十分です。この子に——全てを託す覚悟が必要だと思っています」
長い沈黙が落ちた。
老太爺は茶碗を卓に置き、窓の外を見た。午後の光が庭の畑を照らしている。
「お前が決めることだ」
突き放すような言い方だった。
だが——老太爺の目に安堵の光が浮かんでいた。
麗華はそれを見逃さなかった。
「祖父様。なぜ——安堵しているのですか」
老太爺が微かに目を見開いた。見透かされたことに驚いたように。
「……分かるか」
「祖父様の目は嘘がつけません」
老太爺はため息をついた。深い、長いため息だった。
「お前がそれを悩んでくれること自体が——嬉しいのだ」
「嬉しい?」
「わしは——長い間、秘伝を閉じておくことが正しいと信じてきた。鳳家の秘伝は門外不出。それが代々の掟であり、当主の務めだと。だが——」
老太爺の声が低くなった。
「閉じたことで——失われたものがある。お前にはまだ話していないが……いずれ話す。閉じることの代償を」
「祖父様——」
「今はいい。お前が『開く』ことを選んだ。それだけで——わしは救われる気がするのだ」
老太爺は茶碗を手に取り、残りの龍井茶を飲み干した。
「翠微に全てを教えなさい。お前のやり方で」
「はい」
「ただし——急ぐな。あの子はまだ若い。秘伝の重さを知らぬまま全てを注げば、潰れる」
「分かっています」
「分かっているなら、よい」
老太爺は微笑んだ。穏やかな——だがどこか寂しげな笑みだった。
麗華は祖父の居室を辞した。
庭に出ると、秋の風が吹いていた。畑の穀物が黄金色に輝き、風に揺れている。収穫の季節が近い。
(全てを教える——)
覚悟は固めた。祖父の安堵の光を見たとき、胸の中でずっと張り詰めていた糸が一本、緩んだ気がした。だが麗華は知っていた。自分が翠微に教えられるのは、自分が知っている「全て」に過ぎない。
そして鳳家の秘伝の「全て」を——麗華自身がまだ知らない。
先々代の当主が秘伝書に書き残した一文が、頭をよぎった。
「この術を閉じたのは、守るためではない」
守るためではないなら——何のために?
老太爺の安堵の裏には、長い罪悪感が横たわっている。秘伝を「閉じた」ことへの——後悔。
(祖父様。あなたが全てを話してくださる日を——待ちます)
麗華は空を見上げた。秋の空は高く、薄い雲が流れている。
全てを教える覚悟を固めた。だがその「全て」の外側に——麗華がまだ知らない、巨大な秘密が眠っている。
翠微に教えることで——いつか、その秘密にも辿り着くのかもしれない。
だが焦りはない。焦りは昨日までのものだ。
祖父の安堵を見た。あの目に——麗華は救われた。秘伝を「開く」ことが、少なくとも祖父にとっては正しい選択であること。それが分かっただけで、足は軽くなった。
修行場に着くと、翠微が土の上に座り込んで目を閉じていた。朝の自主練だ。指先が翡翠色に光り、畑の穀物が微かに揺れている。
「先生!」
翠微が麗華に気づいて駆け寄ってきた。
「今日の畑、すごく元気です。昨日の水遣りが効いたみたいで——穀物がみんな上機嫌です」
「上機嫌か。お前の報告は相変わらず感覚的だな」
「えへへ」
翠微が照れくさそうに笑った。
麗華はその笑顔を見つめた。この子に——全てを教える。祖父から受け継いだもの、自分が磨いたもの、そしてまだ見ぬ可能性の全てを。
「翠微。今日から、修行の内容を変える」
「えっ」
「秘伝の核心に入る。覚悟はいいか」
翠微の目が真剣になった。一瞬の間を置いて——力強く頷いた。
「はい。お願いします、先生」
麗華は修行場に向かった。翠微が隣を歩いている。秋の風が穀物の穂を揺らし、金色の波が畑の端から端へと走っていった。




