老太爺の疲れ
翌朝、老太爺は寝台から起き上がれなかった。
窓から差し込む朝日が寝台を照らし、老太爺の白髪が銀色に光っている。だがその顔色は蝋のように白く、唇の血色が薄い。
「少し疲れただけだ。心配するな」
そう言う声にも張りがない。昨日の力強い語り口が嘘のように、声がかすれていた。顔色が悪く、頬骨の下に影が落ちている。昨日の修行場への外出と、百年前の話をしたことが、体に堪えたのだろう。
麗華は祖父の居室に朝の茶を運んだ。龍井茶ではなく、体を温める棗と生姜の湯にした。
「祖父様、これを」
椀を両手で差し出す。棗の甘い香りと生姜の鋭い辛みが、湯気とともに老太爺の顔を包んだ。
「茶が飲みたいのだが」
「体を温めてからにしてください」
「うるさい孫だのう」
老太爺は口ではそう言いながら、棗湯の椀を受け取った。両手で椀を包み、湯気を吸い込む。棗の甘い香りと生姜の辛い匂いが混ざって、部屋に広がった。
一口飲んで、老太爺は微かに表情を和らげた。
「……悪くない」
「春蘭が棗を選んでくれました。今年の新物です」
「あの侍女は気が利くな」
麗華は椅子を引き寄せ、祖父の枕元に座った。
「今日は安静にしていてください。翠微の修行は私が見ます」
「翠微のことは頼むぞ」
また同じ言葉だ。昨日の夕方にも聞いた。
「はい。頼まれなくても——私がやります」
老太爺が薄く笑った。
「お前は昔から強情だった。頼む必要もなかったか」
「そうです」
「だがな、麗華」
老太爺の声が少し変わった。笑みが消え、深い皺の奥から真剣な目が覗いた。
「頼まれることを——嫌がるな。一人で全てをやらなくてもよいのだ」
麗華の胸に、小さな棘が刺さった。
(一人で全てをやらなくてもよい——)
祖父がそう言うのは初めてではない。だが今日の声には、いつもとは違う重みがあった。まるで、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
「……はい」
「まだ——聞きたいことがたくさんあるだろう。百年前のこと。消された秘伝のこと」
「はい。たくさんあります。山ほど」
「全て話す。だが——順番がある。今日は休ませてくれ」
麗華は頷いた。
祖父の手を握った。節くれ立った指は冷たかった。地養術を使い続けてきた手。土に触れ、穀物を育て、鳳凰領を支えてきた手。その手が——こんなにも冷えている。
「祖父様」
「なんだ」
「まだ——お元気でいてくださいね」
老太爺は目を閉じた。口元に微かな笑みが浮かんだ。
「努力はするが、約束はできんぞ。年寄りの体は天気と同じで気まぐれだからな」
麗華は祖父が眠りに落ちるまで手を握っていた。寝息が穏やかになったのを確認して、静かに椀を下げ、部屋を出た。
廊下で春蘭が待っていた。
「お嬢様。老太爺様のご様子は」
「疲れただけだと言っている。だが——」
麗華は言葉を切った。祖父の手の冷たさが、まだ指先に残っている。
「顔色が良くない」
「薬師を呼びましょうか」
「頼む」
春蘭が頷いて去った。
麗華は自室に戻り、卓の前に座った。帳面を広げようとして——手が止まった。
(まだ——聞きたいことがたくさんあるのに)
祖父の手の冷たさが、指先に残っている。
年齢のことだけではない。麗華には分かっていた。老太爺は百年前のことを語るたびに、体から何かが抜けていくように見える。あの話題は——祖父の体力だけでなく、精神を蝕んでいる。
(百年前の「何か」が、今も祖父を蝕んでいる——)
窓の外で、翠微が修行場に向かう姿が見えた。三つ編みの少女が畑に入り、土に手を当てる。指先が翡翠色に光った。
翠微の力は日に日に強くなっている。だが老太爺の体は——日に日に衰えている。
時間は、無限ではない。
麗華は薬膳粥を作ることにした。
体を動かしていないと、不安で胸が潰れそうだった。考えるよりも、手を動かす方がいい。
厨房に立ち、銀耳と蓮子を水で戻す。棗と枸杞を加え、弱火でじっくりと煮込む。銀耳蓮子湯——滋養強壮の薬膳だ。幼い頃、祖父が体調を崩すたびに母が作っていたと聞いた。母が亡くなった後は、麗華がその役目を引き継いだ。
銀耳が半透明に柔らかく溶け、蓮子がとろりと崩れるまで煮込む。厨房に甘い湯気が充満し、銀耳の膠質がとろみを生んで、匙ですくうと糸を引くほどの粘りが出る。仕上げに氷砂糖をひとかけら加えて、甘さを調える。
小さな椀に盛り、祖父の居室に運んだ。
老太爺は目を覚ましていた。
「薬膳粥だ。食べてください」
「また作ったのか」
「毎日作ります。食べていただかないと困ります」
老太爺は椀を受け取り、匙ですくった。白い銀耳の欠片が、蓮子の甘い汁の中でゆらゆらと揺れている。
一口。
「……うまいな。お前の薬膳粥は」
「ありがとうございます」
「お前の母も——うまい粥を作った」
「母のことは、あまり覚えていません」
「そうか。だがお前の味は——母に似ている」
老太爺は二口、三口と粥を飲んだ。椀が空になる頃には、少し顔色が良くなっていた。
「麗華」
「はい」
「翠微の修行——焦るなよ。あの子は若い。時間はある」
時間はある、と祖父は言った。
だが——祖父自身の時間は、どれだけ残っているのだろう。
麗華はそれを口にしなかった。代わりに空の椀を受け取り、微笑んだ。
「はい。焦りません」
嘘だった。
祖父の手の冷たさを知ってから、麗華の中で時間の感覚が変わっていた。祖父が持っている知識を——秘密を——全て聞き出す前に、時間切れになるかもしれない。
焦るな、と祖父は言う。だが焦らずにいられるほど、麗華は鈍くなかった。
窓の外で翠微が修行を終え、夕焼けの中を走っていく後ろ姿が見えた。若さに溢れた、力強い足取りだった。




