大地の泣き声
老太爺が修行場を訪れたのは、翌々日のことだった。
「翠微を見てみたい」
朝餉の席で老太爺がそう言った。白粥の湯気が顔にかかり、老太爺の白い眉毛に水滴がつく。粥を啜る手元は安定しているが、碗を持つ指先に力が足りない。麗華は驚いた。最近の祖父は自室から出ることが少なくなっていた。庭の小さな畑にすら、三日に一度しか出ない。
「お体の具合は——」
「構わん。畑まで歩けぬほど老いてはおらん」
杖をつきながら、老太爺は修行場の畑にやってきた。翠微が緊張した面持ちで出迎える。
「おじいさま。お体は大丈夫ですか」
「おう、翠微か。大きくなったのう。最初に見たときは痩せっぽちの小娘だったが」
「そ、それは——ご飯をたくさんいただいてますから」
「よいことだ。食う子は育つ」
老太爺は畑の端にある石に腰を下ろした。杖を傍らに立てかけ、両手を膝に置く。
「さて。普段の修行を見せてくれ。わしのことは気にするな」
翠微が麗華を見た。麗華が頷く。
翠微は畑の中央に膝をつき、両手を土に当てた。目を閉じる。指先が翡翠色に光った。
老太爺の目が動いた。
翠微の光を見つめている。その目に、最初は冷静な観察者の色があった。だが翠微の光が安定して揺れ始めると——老太爺の表情が変わった。
驚きが走り、それが懐かしさに変わった。
遠い日の記憶を掘り起こすように、老太爺の瞳が揺れた。唇が微かに動いている。声にはならなかった。
「おじいさま」
翠微が目を開けた。「穀物は元気です。ここの畑は——水も養分も足りてて、みんな気持ちよさそうに歌ってます」
老太爺は何も言わなかった。しばらく翠微を見つめた後、静かに目を伏せた。
「よくやった。翠微」
短い言葉だった。だがその声は掠れ、最後の音が震えていた。麗華は祖父の感情の揺れを聞き取った。驚きだけではない。懐かしさだ。遠い昔に見た何かを、今この少女の中に見出している——そういう揺れだった。
翠微が修行場を離れた後、老太爺は石に座ったまま動かなかった。麗華が隣に立つ。
「祖父様。翠微の力を——どうご覧になりましたか」
「……あの子の力は、本物だ」
老太爺が顔を上げた。午後の光が、老人の白髪を透かしていた。
「麗華。少し——昔の話をしてもよいか」
麗華の心臓が跳ねた。
「お願いします」
老太爺は長い息を吐いた。
「百年前のことだ。——いや、正確にはわしが生まれるよりも前だから、父から聞いた話になる」
「はい」
「霊脈震の前にはな——大地が震えた。小さく、何度も。まるで泣いているように」
老太爺の声が低く沈んだ。風が止み、畑の穀物も動きを止めたように見えた。
「最初は誰も気にしなかった。地面が揺れることは珍しくない。だが父は気づいておった。揺れが——大きくなっていることに」
「それは——霊脈の変動ですか」
「うむ。霊脈が震えていた。何かに怯えるように。何かを訴えるように。父は『大地が泣いている』と言った」
老太爺は自分の手を見つめた。節くれ立った指が、微かに震えている。
「だが——誰もその声を聞けなかった。鳳家の地養術は『育てる』力だ。土に力を注ぐことはできても、土の声を聞くことはできなかった」
麗華は息を呑んだ。
「翠微のような子がいれば——」
「あるいは」
老太爺が頷いた。
「あの泣き声に、気づけたかもしれん」
沈黙が降りた。畑の穀物が風に揺れ始め、さらさらと音を立てる。
「祖父様。百年前——鳳家の外にも素質者がいたと、おっしゃいましたね。その人たちは、大地の声を聞けたのですか」
老太爺は答えなかった。代わりに、別のことを言った。
「翠微。あの子は麗華とは違う道を行くだろう。だが——同じ道を行く必要はない」
「はい。それは私も——」
「昔の穀物はもっと力があった」
唐突に話題が変わった。老太爺の目が遠くなる。
「一粒で今の三粒分の栄養があったと、父は言っておった。霊脈が豊かだった時代の穀物は——食えば体の芯まで温まった。今の穀物は……良い物でも、昔には遠く及ばん」
「それは——霊脈震の前のことですか」
「うむ。百年前、この国の大地はもっと生きていた。鳳凰領だけではない。どこの畑でも豊かな穀物が採れた。それが——」
老太爺の声が途切れた。
杖を握る手に力が入った。何かを言おうとして——飲み込んだ。
「……今日はここまでだ」
「祖父様」
「老いぼれを問い詰めるな、麗華。茶でも淹れてくれ」
麗華は口を閉じた。
修行場の畑を背に、二人は老太爺の居室に戻った。麗華が龍井茶を丁寧に淹れ、祖父の手に渡す。老太爺は一口飲んで、目を閉じた。
「……うまいな」
「ありがとうございます」
「翠微のことは、頼むぞ」
「はい」
「あの子の耳は——宝だ。失わせてはならん」
老太爺はそう言って、茶碗を卓に置いた。手が微かに震えている。
麗華は祖父が眠りに落ちるのを見届けてから、静かに部屋を出た。
廊下に出ると、暁風が壁に背を預けて立っていた。
「聞いていたか」
「全部ではないが——少し」
暁風の声は低かった。腕を組み、目を伏せている。壁に預けた肩に力が入っている。
「老太爺殿は、何か重いものを背負っている。あの話し方は——言いたくて言えないときの声だ」
「ああ」
麗華は廊下の窓から畑を見下ろした。
「祖父様の『泣き声』とは何だったのか。翠微の『聞く』力は、過去の悲劇を防げた可能性を示すものなのか——まだ分からないことだらけだ」
「いずれ話す。あの人の目は、そういう目だった」
暁風の言葉に、麗華は小さく頷いた。
夕陽が廊下を赤く染めていた。祖父の部屋から、穏やかな寝息が聞こえてくる。厨房の方角から、夕餉の支度をする使用人の声と、鍋が湯を沸かす低い音が響いていた。日常の音だ。だがその日常の裏に、百年の秘密が横たわっている。




