二つの術
老太爺の居室は、いつも土の匂いがした。土と、乾いた茶葉と、古い墨の匂い。三つの香りが混じり合って、この部屋だけの空気を作っている。
隠居の身とはいえ、祖父は毎朝庭の小さな畑に出て土に触れている。七十八の老体に鞭打つように杖をつき、膝をついて土を掘り返す。その指先が土に触れるとき、微かに淡い光が漏れることがある。衰えてなお消えない、地養術の名残だ。その指に染みついた大地の香りが、部屋の隅々にまで漂っていた。壁に掛けられた墨書「地養一心」の四字が、午後の光に浮かんでいる。
麗華は祖父の前に座り、翠微の検証結果を報告した。
「六つの区画すべてで的中しました。穀物の状態、土壌の偏り、水分の過不足——翠微はすべてを声として聞き取っています」
帳面を広げ、一つ一つの結果を示す。老太爺は黙って聞いていた。皺深い顔に、何の表情も浮かんでいない。
「さらに、天候の予測にも成功しました。三日間の雨を正確に言い当て、前倒し収穫を指示できたおかげで北の三番農区は被害を免れています」
老太爺は帳面を手に取り、しばらく眺めた。それから、静かに帳面を閉じた。
「そうか」
深く頷いた。
麗華が思っていたよりも、驚きが少ない。
「祖父様。この子の能力は——鳳家の秘伝書のどこにも記載がありません。私が学んだ地養術は『育てる』力だけです。翠微の『聞く』力は、まったく異なる系統のものです」
「うむ」
「同じ地養術でもこうも違うものかと——」
「違わぬ」
老太爺が静かに言った。
「翠微の力も地養術だ。ただし——かつて、鳳家の外にも同じような者がいた時代があった」
麗華の目が見開かれた。
「鳳家の外に?」
「百年以上前の話だ」
老太爺は窓の外を見た。庭の畑に、秋の午後の光が落ちている。
「あの頃は——鳳家だけが地養術を使っていたわけではなかった。素質を持つ者は各地にいて、それぞれのやり方で土と向き合っていた。聞く者、育てる者、癒す者——いろいろおったそうだ」
「秘伝書にはそのような記述は——」
「書かれなかったのではない」
老太爺の声が低くなった。
「消されたのだ」
麗華の指が膝の上で止まった。
「消された? 誰が——なぜ」
老太爺は口を閉ざした。長い沈黙が落ちた。庭の木々が風に揺れ、葉擦れの音だけが部屋に入ってくる。
「……その話は、また今度だ」
「祖父様」
「麗華。老いぼれの昔話には、順番がある。今日のところは——翠微のことだけにしておけ」
突き放すような言い方だった。だがその目に、何かが揺れていた。苦しみとも、悔恨ともつかない光。
麗華は祖父の顔をじっと見つめた。
(祖父様は——何を知っているのだ)
問い詰めたい衝動を、麗華は呑み込んだ。老太爺の顔色が悪い。今日は朝から咳が出ていたと、侍女から聞いている。無理をさせてはいけない。
「……分かりました。では翠微のことだけ申し上げます」
麗華は居住まいを正した。
「翠微の力は——鳳家の秘伝の範疇を超えています。私は、この子に全てを教えようと考えています」
「全てを、か」
「はい」
老太爺は目を細めた。麗華を見つめる視線が、どこか遠い。孫娘を見ているのではなく——もっと昔の何かを見ているようだった。
「お前がそう決めたのなら、わしが口を出すことではない」
それだけ言って、老太爺は目を閉じた。
疲労が目元に濃く出ている。話をしただけで体力を消耗したのか——麗華は胸が締めつけられた。
「祖父様。蓮子粥をお持ちしました。召し上がってください」
麗華が朝のうちに煮ておいた蓮子粥を温め直し、小さな椀に盛った。蓮の実の白い粒が粥の中で柔らかく崩れ、ほのかな甘みが湯気と共に立ちのぼる。
老太爺は椀を受け取り、匙で一口すくった。
「……最近、味が分かりにくくなった」
ぽつりと呟いた。
麗華の手が止まった。
「昔は——蓮子粥の甘みがもっと強かった気がする。鳳凰領の蓮は日本一の味だと、父がよく言っておった」
「味が薄く——」
「いや、粥のせいではない。わしの舌が衰えただけだ」
老太爺は微かに笑った。だがその笑みの奥に、麗華は別の意味を読み取った。
(味が薄くなった——それは本当に祖父様の舌だけのことか?)
祖父が語った「百年以上前」の穀物は、今のものとは違ったのではないか。霊脈が豊かだった時代の作物は、今よりもずっと力強い味がしたのではないか。
「祖父様」
「なんだ」
「翠微のような子が百年以上前にもいたのなら——その子たちは、今どこにいるのですか」
老太爺は粥をもう一口すくい、ゆっくりと飲み込んだ。
「……いなくなった。百年前に、全て」
それ以上は語らなかった。
麗華は椀を下げ、祖父に毛布をかけた。老太爺はすぐに眠りに落ちた。呼吸は穏やかだが、頬がこけて見える。
部屋を出た麗華は、廊下で立ち止まった。
(消されたのだ——)
秘伝書から消された記述。百年前にいなくなった、鳳家の外の素質者たち。祖父が口を閉ざす理由。
全てが繋がりそうで、繋がらない。
(鳳家の秘伝は、何かを隠すために閉じられたのか——?)
廊下の先の窓から、夕陽に照らされた鳳凰領の田畑が見えた。黄金色の稲穂が風に揺れている。美しい光景だ。だがその美しさの裏に、百年の秘密が埋まっている。
麗華は拳を握った。
いつか——祖父が語る日が来る。それまでは、翠微を育て、秘伝を開き、自分にできることを積み上げるしかない。
だが「その話はまた今度だ」と言った祖父の目に浮かんでいた光を、麗華は忘れなかった。
あれは——重荷を降ろしたがっている目だった。百年の秘密を、一人で背負い続けてきた老人の目だった。
夕陽が廊下の窓硝子を朱に染め、鳳凰領の田畑が黄金色から茜色へと移ろいでいく。秋の匂いが濃い。穀物が実る匂い、土が眠りにつく匂い、そして——時間が過ぎていく匂い。




