翠微の耳
秋の空気が澄んだ朝だった。空は高く晴れ渡り、遠くの山並みが青く霞んでいる。修行場の畑には朝露が光り、苗の葉先から雫が落ちるたびに、土が小さな音を立てた。
翠微が修行場の畑に立ち、目を閉じている。風が吹くたびに三つ編みが揺れる。両手は体の横に下ろしたまま——土には触れていない。
麗華は遠くからその姿を見ていた。
「先生。明後日から三日、雨が降ると思います」
翠微が目を開けて言った。振り返らず、空を見上げたまま。
「大地がそう言ってます」
麗華は眉を上げた。天候の予測——それは地養術の応用としては聞いたことがない。
「根拠は?」
「えっと……根拠って言われると……」
翠微が困った顔をした。
「土の声が変わったんです。いつもは穏やかに流れてるんですけど、今朝から急にざわざわしてて。水が来るぞって——準備してるみたいな感じです」
「土が準備している?」
「はい。土の中の虫とか、根っことか、みんな上に上がろうとしてます。水が来るから、備えてるんだと思います」
麗華は空を見上げた。薄い雲が流れているだけで、雨の気配はない。
「三日というのは」
「大地がそう言ってます。最初は小雨で、二日目に本降り、三日目に上がる——って」
麗華は考えた。翠微の感知能力は穀物の状態把握において正確だった。だが天候の予測となると、まったく別の次元の話だ。
「分かった。念のため、収穫の前倒しを指示しておこう」
「えっ。信じてくれるんですか」
「信じるかどうかではない。判断の材料にする」
麗華は春蘭を呼び、北の三番農区の稲刈りを二日前倒しするよう領民に伝えた。春蘭は怪訝な顔をしたが、麗華が「翠微の見立てだ」と言うと、それ以上は問わなかった。
領民の反応は半信半疑だった。
「翠微ちゃんが雨を予報? 空は晴れてるのに?」
「鳳家のお嬢様がそうおっしゃるなら、まあ……」
麗華の信用で動いている。翠微個人の信用では——まだ足りない。
翌日も晴れた。
翠微は少し不安そうだった。麗華が修行場に来ると、いつもより早く土に手を当てている。
「先生。大地の声は変わってません。むしろ昨日より強くなってます。虫たちが慌ただしく動いてて——明日、降ります」
「分かった」
麗華は平静に答えた。内心は——賭けに近い気持ちだった。もし降らなければ、翠微の信用が傷つくだけでなく、麗華自身の判断が問われる。
だが、あの子の耳を信じると決めた。
三日目の朝。
目を覚ました麗華が窓を開けると——灰色の雲が空を覆っていた。
やがて、ぽつり、ぽつりと雨粒が落ち始めた。
小雨だ。翠微の言った通りの——小雨。
午後には本降りになった。前倒しで刈り取っておいた稲は穀倉に収められており、濡れる心配はない。だが前倒しをしていなかった南の農区では、稲が雨に打たれて倒伏した区画が出た。
「翠微ちゃんの言う通りだった——」
領民の声が変わった。
「あの子、雨が分かるのか」
「今回だけかもしれないだろ」
「でも、北の三番は助かった。鳳家のお嬢様が前倒しを指示しなかったら——」
翌日、雨は上がった。三日間の雨。翠微の予測は完全に的中した。
領民の態度が明らかに変わった。
翠微が畑を歩くと、老農夫が話しかけてくるようになった。
「翠微ちゃん。うちの畑の調子はどうだい?」
「えっと——」
翠微が畑の端に手を当てる。
「この畑は元気ですよ。でも、東の隅だけちょっと……水はけが悪くて、根が苦しそうです」
「東の隅か。確かにあそこは昔から——」
老農夫が目を丸くした。
「言い当てやがった」
翠微を「不思議な子」と見ていた領民が、「ありがたい子」に変わっていく。
虹の光が畑を淡く染め、雨に洗われた空気が清浄な香りを運んでくる。
昼時、前倒しで収穫した穀物を使って焼き餅を作った。翠微が「このお米で作ったらおいしいと思います」と選んだ穀物を、麗華が粉に挽いて薄く焼いた。
焼き餅の香ばしい匂いが畑に広がる。
「翠微のおかげで旨い餅が食える」
老農夫が焼きたての餅を頬張った。
「雨に打たれてたら、この米は台無しになってたからな」
翠微が照れくさそうに笑った。耳が赤い。
「あたし、何もしてないです。大地が教えてくれただけで」
「教えてくれたのはお前の耳があるからだ」
麗華が焼き餅を一枚、翠微の手に載せた。
「食べなさい。お前が守った穀物だ」
翠微が焼き餅を一口かじった。目が細くなる。
「……おいしい」
「そうだろう」
麗華も一枚を手に取った。薄く焼いた餅は外が香ばしく、中はもっちりとしている。噛むと穀物の甘みがじわりと広がる。地養の力が宿った穀物は、粉にしても味が違う。
暁風が後ろから手を伸ばして餅を一枚取った。
「旨い。これは旨い」
「将軍殿は何を食べても旨いと言いますね」
「旨いものは旨い。嘘はつけん」
領民が笑った。暁風も小さく笑った。
雨上がりの空に虹がかかっていた。翠微はそれを見上げて、焼き餅をもう一口かじった。
焼き餅の最後の一欠片を飲み込んだ翠微が、雨上がりの虹を見上げている。七色の光が少女の茶色い瞳に映り、きらきらと揺れていた。
麗華はその横顔を見つめながら思った。
(この子の力は、穀物を育てるのではなく、大地を理解するもの——)
大地を理解する力。それは、荒地化を理解する力でもあるのだろうか。
鳳凰領の外に広がる灰色の荒地。あの荒れ果てた大地の声を——翠微なら、聞けるのだろうか。
まだ答えは出ない。だが翠微という少女の力は、麗華が思っていたよりも——ずっと深い場所に根を張り始めている。
焼き餅の香ばしい残り香が、雨上がりの澄んだ空気の中にまだ漂っていた。穀物を守り、穀物で人を養い、穀物を通じて大地の声を聞く。翠微の力がこの鳳凰領に何をもたらすのか——それは、まだ誰にも分からない。




