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廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


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畑の声

 その日の修行は、いつもと同じように始まった。


 朝餉あさげを済ませた翠微すいびが、修行場の畑に立つ。空は薄曇り。風はないが、土の匂いが濃く漂っている。数日前の雨で地面はまだ湿り気を含み、苗は朝露を纏って青く輝いていた。


 麗華れいかは畑の端に腰を下ろし、翠微の動きを見守っていた。


 修行が始まって半月ほどが経つ。最初は霊脈に触れるだけで精一杯だった翠微が、今では安定して穀物に力を注げるようになっている。枯らした畑の記憶はまだ双方の胸にあるが、翠微はあれ以来、力の加減を体で覚え始めていた。


 翠微が目を閉じ、両手を土に当てた。


 指先が淡く光る。麗華のそれとは色味が異なる——翠微の光は深い翡翠色で、どこか揺らぎがある。水面に映った光のように、ゆらゆらと明滅を繰り返す。


 しばらく沈黙が続いた。


 翠微の眉が僅かに寄った。集中しているときの癖だ。唇が小さく動いている。何かを聴いている——と麗華は思った。翠微はいつも、霊脈に触れているとき、何かに耳を傾けるような仕草をする。


「先生」


 翠微が目を開いた。深い翡翠色の光が指先からゆっくりと消えていく。


「何か気づいたか」


「はい。あの……先生、あたし——畑の声が聞こえるんです」


 麗華の手が止まった。


「声?」


「穀物が——喉が渇いたとか、お腹いっぱいとか……音みたいに聞こえます。昨日の修行でも聞こえたんですけど、今日はもっとはっきり」


 翠微は自分でも戸惑っているようだった。眉を寄せて言葉を探している。


「変ですよね。穀物がしゃべるわけないのに」


「変ではない」


 麗華は立ち上がった。畑に降りて、翠微のそばに膝をつく。


「もう少し詳しく教えてくれるか。何が聞こえる」


「えっと……」


 翠微は再び目を閉じ、手を土に当てた。指先が翡翠に光る。


「この穀物は——水が欲しいって言ってます。根っこのあたりが、きゅうきゅうって」


「きゅうきゅう」


「はい。あと、隣の列の穀物は——満足してます。ふわーって、眠たそうな感じ」


 麗華は翠微が指さした穀物を見た。確かに、指さされた苗は葉先がわずかに巻いている。水分が不足しているときの兆候だ。隣の列は瑞々しく、葉が広がっている。


 麗華も同じ土に手を当ててみた。


 霊脈の脈動を感じる。温かく、緩やかな流れ。麗華にとって霊脈は「根」のような感覚だ。大地の奥に張り巡らされた見えない根が、穀物に養分を送っている。それを意識的に操作し、力を注ぐ——それが麗華の地養術ちようじゅつだった。


 だが「声」は聞こえない。穀物が渇いているかどうかは、葉の様子や土壌の状態から判断するしかない。


「翠微。もう一つ試してくれ」


「はい」


「あの端の苗——何か聞こえるか」


 翠微が視線を向けた。畑の端にある、やや発育の悪い一画だ。


「……怒ってます」


「怒っている?」


「うーん、怒ってるっていうか……お腹がすいてるのに、ごはんが来ないから怒ってる感じ。土の中の何かが、足りないって」


 麗華はその区画の土を手に取った。指で揉み、匂いを嗅ぐ。見た目では分からない。だが翠微の「声」に従って考えるなら——鉄分、あるいは養分の偏りがあるのかもしれない。


「水を遣ってみてくれ」


 翠微が頷き、桶から柄杓ひしゃくで水を汲んだ。苗の根元にそっと注ぐ。


 すると——目に見えて苗が変わった。巻いていた葉先がゆっくりと開き、色味が薄い黄緑から深い緑に変わっていく。ほんの数秒のことだった。


「わあ」


 翠微自身が驚いている。


「すごい。水あげたら、喜んでます。わーいって」


(わーい、ときたか)


 麗華は心の中で小さく笑った。


 だが笑ってはいられない。翠微の能力は——麗華が持っていないものだ。


 麗華は霊脈の力を穀物に「注ぐ」ことができる。だが穀物が何を求めているかは、経験と観察で判断するしかなかった。翠微は違う。穀物の声を直接「聞いている」。


 それは農業における革命的な能力だった。


「先生?」


 翠微が不安げに麗華を見上げている。


「あたし、変なこと言ってますか?」


「いいや。変ではない」


 麗華は翠微の頭にそっと手を置いた。


「お前は——大地の声を聞く力がある。私にはない力だ」


「先生にない?」


「私は育てることはできる。だが、聞くことはできない。お前の力は——私とは違う道を行くものかもしれない」


 翠微は目を丸くした。理解しきれていない顔だ。だが麗華のその言葉に嘘がないことだけは、感じ取ったようだった。


「先生。あたし——もっと聞けるようになりたいです」


「ああ。なれるだろう」


 麗華は穏やかに微笑んだ。


 翠微の目がきらきらと輝いている。朝の曇り空の下でも、この少女の瞳には光がある。まるで大地から光を受け取っているかのように。


「今日の修行は終わりだ。昼餉にしよう」


「はいっ」


 修行場の脇にある東屋で、二人は昼食を取った。麗華が朝のうちに用意しておいた包み——粟飯のおにぎりと、蕪の浅漬け、干し肉を薄く切ったもの。質素な弁当だが、翠微は嬉しそうに頬張る。


「先生。この粟飯、すっごく元気です」


「また穀物の話か」


「だって聞こえるんですもん。このおにぎりの粟——炊かれてからも、まだ歌ってます。ちいさい声ですけど」


 麗華はおにぎりを一口かじった。粟の甘みが口に広がる。鳳凰領の粟は地養の恩恵で味が濃い。噛むほどに穀物の力が舌に伝わってくる。


「歌っているかどうかは分からないが——旨いな」


「はい! 先生のおにぎり、大好きです」


 翠微が三つ目のおにぎりに手を伸ばした。食いしん坊は相変わらずだ。


 蕪の浅漬けをかじりながら、麗華は翠微の横顔を見つめた。この子が「聞く」と言ったとき——嘘や誇張の気配は全くなかった。翠微にとって穀物の声は、空気のように当たり前の存在なのだろう。


 昼食を終え、翠微が修行場の片付けをしてから帰っていった。


 一人になった居室で、麗華は長いこと考え込んでいた。


 翠微の「聞く」能力は、鳳家の秘伝書のどこにも記載がない。麗華が学んだ地養術は「育てる」ための技術体系であり、穀物の状態を直接感知する術については一行も書かれていない。


(この子は——私を超えるかもしれない)


 そう思った。


 いや。超えるというより——


(私とは違う道を行くのかもしれない)


 窓の外では、夕陽が畑を赤く染めていた。翠微が地養を施した苗が、夕風に揺れている。水を得た苗は明らかに元気になっていた。


 麗華は茶を一口飲んだ。冷めた龍井茶ロンジンチャの苦みが、舌の上でじわりと広がる。


(畑の声が聞こえる——それは、荒地の声も聞こえるということか?)


 まだ答えは出ない。だが翠微という少女が、麗華の知らない地養術の形を見せ始めている。それだけは確かだった。


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