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廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


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慣れた味

 いつの間にか、二人で夕食を取るのが日課になっていた。


 麗華の居室の卓に、簡素な膳が二つ並んでいる。紅焼肉ホンシャオロウ——醤油と氷砂糖でじっくり煮込んだ豚の角煮。青菜の大蒜にんにく炒め。白飯。それだけの夕食だ。


 特別な料理ではない。鳳凰領のどの家庭でも出るような日常の膳。だが麗華が作ると、素朴な料理にも品が宿る。紅焼肉の煮汁は琥珀色に輝き、脂身は口の中でとろけ、赤身は箸で切れるほどに柔らかい。醤油と氷砂糖の甘じょっぱい香りが部屋に漂い、青菜は鮮やかな緑色を保ち、大蒜の香りが食欲をそそる。白飯は地養術で育った鳳凰領の米で、一粒一粒が透き通るように艶やかだった。


 いつから始まったのだろう。最初は麗華が余った料理を暁風に分けたのがきっかけだったか。それとも暁風が巡回帰りに「飯はまだか」と厚かましく訊いてきたのが始まりか。いずれにしても、今では麗華が二人分の膳を当たり前のように準備し、暁風が当たり前のように卓に着く。


 暁風は白飯の上に紅焼肉を載せ、無言で頬張った。


 箸が止まった。いつものことだ。最初の一口で必ず箸が止まる。紅焼肉が口の中で崩れ、煮汁の甘みと肉の旨みが舌の上で溶け合う瞬間、暁風の表情が一瞬だけ緩む。


「旨い」


「ありがとうございます」


 麗華も自分の飯を食べ始めた。紅焼肉を一切れ、白飯と合わせて口に入れる。甘辛い煮汁が米に染み、穀物の甘さと肉の旨みが重なる。自分で作った料理を自分で食べるのは、味の確認でもある。今日の紅焼肉は少し甘みが強い。氷砂糖を気持ち多めに入れたからだ。暁風はこちらのほうが好むだろう。


(暁風の好みに合わせて味を変えている自分に、いつ気づいたのだろう)


 窓の外は暗くなり、灯火の光が膳の上を温かく照らしている。秋の虫の声が遠くに聞こえ、どこかの家で炊飯の煙が上がっている匂いが風に乗ってくる。鳳凰領の夜は、いつも食の匂いに満ちている。


「翠微の修行はどうだ」


 暁風が紅焼肉をもう一切れ口に運びながら訊いた。二切れ目からは箸が止まらない。黙々と食べ続ける。


「苗を枯らしたわ」


「ほう」


「力を入れすぎて。一区画全滅。でも、泣いた後にすぐ『もう一度やらせてください』と言ったから、大丈夫よ」


「根性のある子だな」


「ええ。——ただ、教えるのが、思ったより難しい」


 麗華は青菜を箸で挟み、白飯と一緒に口に入れた。大蒜の香りと青菜のほろ苦さが、飯の甘さと合わさる。


「わたくしの感覚と翠微の感覚がまるで違うの。わたくしは『根』として感じるけれど、翠微は『流れ』として聞く。同じ術なのに、見えている世界が違う。教え方の手本がないから、一つずつ試していくしかないわ。秘伝書にも書いていない方法を、わたくしが作らなければならない」


「大変だな」


「大変よ。でも——面白いのも確かだわ。翠微に教えることで、わたくし自身の術への理解が変わってきている。『根』の感覚がすべてだと思っていたけれど、そうではなかった。地養術にはもっと広い世界がある」


「師匠も学ぶ、か」


「そういうことね」


 しばらく、箸の音だけが部屋に響いた。紅焼肉を食べ、青菜を食べ、白飯を口に運ぶ。暁風が紅焼肉を三切れ目に手を伸ばし、麗華が「食べすぎですよ」と言い、暁風が「まだある」と返す。言葉がなくても居心地が悪くない食卓。会話がなくても、箸の音と咀嚼の音だけで成り立つ時間。


 暁風が飯を半分ほど平らげた頃、ぽつりと言った。


「この味に慣れた」


 麗華の箸が、一拍だけ止まった。


「慣れた……ですか」


「ああ。鳳凰領に来た頃は、何を食っても驚いていた。軍の糧食しか知らなかったから。干し飯と塩漬け肉と、運が良ければ汁物。それが飯だと思っていた。だが今は——この味が普通になった。あんたの作る飯の味が、俺の日常になった」


 何気ない言葉だった。暁風にとっては、ただ感じたことを口にしただけだろう。食事の感想。それ以上でも以下でもない——と、本人は思っているに違いない。


「帰ったら物足りなくなりますよ」


 麗華は穏やかに言った。声の調子を整え、いつも通りの余裕のある口調を保った。


「帝都のお食事は質素でしょうし、軍の糧食に戻ったら——この味が恋しくなるのではありませんか」


 暁風が一瞬、黙った。


 紅焼肉を載せた箸が、空中で止まっている。暁風の墨色の瞳が、麗華の顔を見つめ、それから逸れ、膳の上に落ちた。


「……かもしれんな」


 それだけ言って、紅焼肉を口に入れた。


 沈黙が落ちた。


 だがこの沈黙は、先刻までの心地よいそれとは少し違った。空気の中に、名前のつかない何かが漂っている。暁風は黙々と飯を食べ、麗華も黙々と食べた。だが二人とも、味を感じるよりも先に——互いの言葉の余韻を噛みしめていた。


「この味に慣れた」。


「帰ったら物足りなくなりますよ」。


「かもしれんな」。


 どれも、表面上はただの食卓の会話だ。食べ物の話。味の話。だがその言葉の下に——もう一つの意味が透けている。「慣れた」という言葉は、ここが居場所になったということ。「物足りなくなる」という言葉は、帰らないでほしいということ。「かもしれない」という言葉は——


 暁風が最後の紅焼肉を口に入れ、白飯を綺麗に平らげた。一粒も残さない。いつもそうだ。暁風は麗華の作った飯を一粒も残さない。


「ごちそうさま」


「お粗末さまでした」


 暁風が立ち上がり、扉に向かった。いつもの夕食の終わり方。膳を残し、暁風が自室に戻り、麗華が食器を片付ける。何日も何十日も繰り返してきた流れ。


 扉を開けかけた暁風の背中に、麗華は声をかけなかった。


 何を言えばいいのか分からなかったから。「帰らないで」とは言えない。「ずっとここにいて」とも。それは——廃妃になった女が、皇帝の将軍に言う言葉ではない。


 暁風が出ていった。扉が静かに閉まった。


 麗華は食器を片付け始めた。暁風が使った茶碗を手に取り、水で洗う。何の変哲もない白い茶碗。毎日使っている茶碗。底に小さな欠けがある。最初からあったのか、使い続けるうちにできたのか。


 手が止まった。


(「この味に慣れた」)


 暁風がこの茶碗で白飯を食べ、紅焼肉をおかずにし、青菜を箸で運んだ。毎日。何十日も。「慣れた」と言えるほどの日数を、この卓で共に過ごした。


(——わたくしも)


 麗華は茶碗を水に沈めた。


(この食卓に、慣れてしまった)


 二人分の膳を準備するのが当たり前になっていた。暁風の好みを知っている。紅焼肉は脂身が多めのほうが喜ぶ。青菜は大蒜を利かせたほうが箸が進む。白飯は大盛り。茶は食後に一杯。箸置きは暁風の手の大きさに合う太めのものを選んでいる。


 いつから、こうなったのだろう。


(帰ったら物足りなくなる——のはわたくしも同じよ)


 口には出さなかった。出してはいけない言葉だと思った。


 食器を洗い終え、布巾で拭いて棚に戻した。灯火の光が白い茶碗を照らしている。欠けた底が、灯りを受けて小さな影を作った。


 窓の外では、鳳凰領の夜が静かに更けていた。


 遠くで犬が吠え、虫が鳴き、どこかの家の灯りが消えていく。鳳凰領の夜は穏やかだ。食の匂いが薄れ、夜露の匂いに変わっていく。


 麗華は灯火の前に座り、しばらく何も考えずにいた。紅焼肉の醤油の匂いがまだ部屋に残っている。暁風が「旨い」と言った声が、耳の奥に残っている。


(慣れた味。——わたくしも)


 灯火を消した。暗闇の中で布団に入り、目を閉じた。


 明日も朝食を作る。翠微の分と、自分の分と——暁風の分と。


 三人分の膳を準備することが、いつの間にか日常になっていた。その日常が続くことを、麗華は願っている自分に気づいていた。


 暗闇の中で、右手の人差し指が左手首の内側を撫でた。自分でも気づかない癖だ。感情が揺れるときに出る。


 鳳凰領の夜は、今日も穏やかだった。


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