触れる
二日目の修行で、翠微は霊脈に「触れた」。
前日と同じ畑。朝食を済ませ、霊脈の露頭の傍で瞑想を始めた。翠微は昨日より早く集中に入った。目を閉じ、呼吸を整え、足の裏から大地の温度を感じ取ろうとする。昨日は一日かかった。今日はどうだろう。
一刻ほどが過ぎた頃、翠微の指先が再び淡く光った。今度は昨日より長い。三呼吸分ほど、緑色の光が指先に留まった。昨日の一瞬とは違う。翠微の意識が霊脈に繋がり、その繋がりが数瞬だけ保たれた。
「先生——触れています。温かい……川みたいです。流れている」
麗華は翠微の言葉に耳を傾けた。
「川のように流れている。それがお前の感じ方なのね」
「はい。大きな川が……地面の下を、ゆっくり流れています。温かくて……優しい感じがします。水の音みたいなのが聞こえて……さらさら、って」
翠微が目を開けた。指先の光は消えたが、明るい茶色の瞳には興奮が残っていた。
「先生も同じですか? 川みたいに感じますか?」
麗華は首を横に振った。
「わたくしは川とは感じない。根のように感じるの。大地の奥深くから枝分かれする根が、隅々まで広がっているような感覚。力の流れを根の先端で掴み、そこに意識を注ぐ。流れるものではなく、張り巡らされたもの。水ではなく、木。わたくしの霊脈は——木の根だわ」
「根……ですか。あたしとは全然違いますね」
「ええ。違う」
麗華は翠微の手を見つめた。農家の娘らしく荒れた手だが、指が長い。地養術を使うとき、翠微の指先は翡翠色に光る。麗華の淡緑とは色味が異なっていた。麗華の光はどちらかといえば黄みを帯びた淡緑だが、翠微の光は青みの強い翡翠色だ。
(わたくしは「根」として感じる。翠微は「流れ」として聞く)
同じ霊脈に触れているはずなのに、感覚が根本的に違う。麗華は霊脈を制御の対象として捉えている——力を注ぎ、方向を定め、穀物に届ける。だが翠微は霊脈を「聞いている」。流れの音を感じ、温度を知り、状態を読み取っている。
制御と感知。育てることと聞くこと。
秘伝書には、こんな区分は書かれていない。鳳家の歴代の術者はすべて「育てる」系統だった。少なくとも、記録の上では。だが翠微は——別の系統だ。
「翠微。もう一度やってみなさい。今度は、川の流れに手を浸すつもりで」
「手を浸す……ですか?」
「そう。触れるだけではなく、流れの中に手を入れてみなさい。何が聞こえるか教えて」
翠微は頷き、再び目を閉じた。
数分の沈黙。鳥の声と、風が穂先を揺らす音だけが畑に響いている。
翠微の表情が変わった。眉が寄り、唇が薄く開く。集中の深さが一段増したのがわかった。指先が微かに震えている。
「……聞こえます」
「何が?」
「小さな音。たくさん。穀物の根っこが、水を吸い上げている音。ちゅうちゅうって、小さく。虫が土を掘っている音。かりかりって。それから——遠くで——すごく遠くで、何か大きなものが……鳴っている?」
最後の言葉に、麗華は反応した。
「大きなものが鳴っている?」
「はい。すごく遠くて、よく分からないんですけど。低い音です。地面の奥の奥から。ずうん、って。ゆっくり、何かが脈打ってるみたいな……」
翠微が目を開けた。
「何の音だろう……」
麗華は答えなかった。答えられなかった。麗華の「根」の感覚では、そんな音は聞いたことがない。翠微が聞いているものが何なのか——見当がつかなかった。だが「大地の奥の奥で何かが脈打つ音」という描写は、麗華の心に引っかかった。
(霊脈そのものの鼓動……? だとすれば、翠微は霊脈の根源に近い部分を感知しているのか)
「今日はここまでよ。よく集中したわ」
「はい! ありがとうございます、先生!」
翠微が立ち上がり、体をほぐすように伸びをした。長時間の瞑想で体が固まっていたのだろう、あちこちの関節がぱきぱきと鳴った。「いたたた」と言いながら腰を伸ばす姿は、素質者というよりただの農家の少女だった。
麗華は翠微を先に帰し、一人で畑に残った。
露頭の岩に手を当てた。目を閉じ、霊脈に意識を沈める。いつもの感覚——大地の根が広がり、力の流れを掴む。根の先端から情報が伝わってくる。土壌の状態、水分量、穀物の生育状況。
(大きなものが鳴っている——遠くで)
翠微が聞いた「音」を、麗華は探した。根の感覚を研ぎ澄まし、霊脈の奥へ、さらに奥へ。根を深く深く伸ばしていく。
何も聞こえなかった。
麗華にはない感覚。翠微だけが持つ「聞く」力。それが何を捉えているのか——
(この子の素質は、わたくしとは違う種類のものかもしれない)
手を岩から離した。
夕暮れの畑で、麗華はしばらく空を見上げていた。翠微の「川のような流れ」と「遠くで鳴る大きなもの」。同じ地養術でも、見えている世界がまるで違う。
帰り道、麗華は台所に寄った。翠微のために杏仁豆腐を作ってやろうと思った。修行の後には甘いものがいい。体を冷やさないよう、温かい茶も添えて。
杏仁を砕き、水で溶き、砂糖と合わせて蒸す。単純な菓子だが、杏仁の量と蒸し加減で味がまるで変わる。杏仁が多すぎれば苦みが出、少なすぎれば風味が足りない。蒸し時間が長すぎれば固くなり、短すぎれば形が保てない。麗華は手慣れた動きで杏仁豆腐を仕上げ、小さな碗に盛った。
(教えることは——教わることでもある)
翠微の感覚を知ることで、麗華自身の地養術への理解が深まっている。自分が「当たり前」と思っていた感覚が、実は一つの型に過ぎなかったのだと。「根」の感覚は地養術の全てではなく、地養術の一つの在り方でしかない。
杏仁豆腐を盆に載せ、翠微の部屋に向かった。
「翠微、甘いものを持ってきたわ」
「先生! やった!」
翠微が飛びついてきた。杏仁豆腐を見て目を輝かせ、匙で一口すくう。白い豆腐が匙の上で震え、杏仁の甘い香りが漂う。
「おいしい……先生、これも霊脈の穀物で作ったんですか?」
「杏仁は穀物ではないわ。それと、体を冷やすな。茶も飲みなさい」
「はーい」
師弟の一日が、甘い杏仁の香りとともに終わった。




