密報
祭りの翌朝は、穏やかだった。
鳳凰領の街路にはまだ灯籠の残骸が散らばり、前夜の祝いの名残が漂っている。早朝の空気は清冽で、露に濡れた畑が朝日に光っている。収穫祭の飾り輪がまだ軒先に残り、風が吹くたびにからからと揺れていた。
麗華は台所で朝食の支度をしていた。白粥を火にかけ、祭りの余り物——花雕酒で煮た豚角煮の残りと、翠微が選んだ穀物で作った焼き餅——を器に盛っている。祭りの翌朝は、こうして余り物を丁寧に並べるのが好きだった。祝いの華やかさが過ぎた後の、静かな贅沢。
竈の火を調節しながら粥をかき混ぜる。白い粥が静かに煮立ち、穀物の優しい匂いが台所に広がっていく。窓から差し込む朝日が湯気を金色に染めていた。
足音がした。春蘭が入ってきた。いつもの穏やかな足取りではなく——早い。履物が石畳を蹴る音がいつもより鋭い。
「お嬢様」
春蘭の声に、鋭さがあった。声のトーンで察した。平時の報告ではない。
麗華は粥の火を弱め、振り向いた。春蘭の目を見た瞬間、確信に変わった。
「何があったの」
「帝都の情報網から、緊急の密報です」
春蘭が懐から薄い紙を取り出した。蝋で密封された折り畳みの書状。春蘭が築いた帝都の情報網——元後宮の女官や、鳳家と懇意の商人たちのネットワーク——からの暗号文だ。複数の経路から同時に届いたということは、情報の信頼度が高い。
麗華は書状を受け取り、卓の灯りの前で開いた。暗号を読み解く目が、みるみる細くなる。後宮時代に春蘭と二人で考案した暗号体系だ。文字の配列と行間の符号を読み合わせることで、本文が浮かび上がる。
「蘇家が大規模に人を動かしている」
「はい。数十名の規模で、帝都から複数の方向に人員を派遣しているとのこと。商人を装った者、巡礼者に紛れた者、護衛を連れた使者——動きの速さと規模が尋常ではないと。少なくとも三方面への同時展開です」
麗華は書状を卓に置いた。
「暁風を呼んで」
「すでにお呼びしております」
間を置かず、廊下に足音がした。暁風が入ってきた。髪をまだ結い終えておらず、革紐を口にくわえたまま片手で束ねている。寝起きの顔だが、目だけは鋭かった。軍人の目だ。起き抜けでも即座に戦闘態勢に入れる。
「何があった」
麗華が書状を暁風に渡した。暁風は暗号を読めないが、麗華が口頭で内容を伝えた。
「蘇家が人員を動かしている。数十名規模。方向は複数だが、そのうち少なくとも一隊が鳳凰領の方角に向かっている可能性がある」
暁風の表情が変わった。武人の顔だ。腕組みを解き、腰の剣を確かめるように帯に手をやった。
「監視役の俺に来た情報ではない」
「どういうことですか」
「俺は皇帝陛下から密書で指示を受ける立場だ。蘇家の動きが朝廷の命令なら、俺にも何らかの通達があるはず。——来ていない。最後の密書は十日前で、内容は通常の経過報告の催促だった」
麗華と春蘭の目が細くなった。
「つまり、蘇家は朝廷にも報告していない」
「独自の動きだ。朝廷を通さない——蘇家が勝手にやっている。あるいは宰相と結託して、皇帝に知らせず動いている」
三人の間に緊張が走った。
朝廷を通さない蘇家の独自行動。それは、蘇家が朝廷の統制から外れた動きをしているということだ。宰相の趙文昌が絡んでいるかもしれないし、蘇家単独かもしれない。いずれにしても——公式な外交や交渉ではなく、水面下の工作を意味する。
「標的は何だ」
暁風が問うた。
「鳳凰領の何を狙っている。商業ルートか。穀物か。人か。それとも——」
暁風の言葉が途切れた。
三人とも、同じことを考えていた。
蘇家が動く理由。鳳凰領の力の源。穀物を生産できる唯一の地。その根幹にあるもの。
「霊脈」
麗華が低く言った。
「蘇家が狙うとすれば——商業ルートの妨害程度では済まないわ。鳳凰領の食糧生産そのものを断つつもりなら、標的は霊脈しかない」
春蘭が頷いた。
「帝都の密議でも、蘇家の重臣が『根本を』と発言しておりました。商業ではなく、もっと根本的な——鳳凰領の生命線を断つ何か」
「根本。霊脈を攻撃する手段があるのか」
暁風が眉を寄せた。
「分からない。だが蘇家が霊脈について何らかの知識を持っている可能性は——ゼロではないわ。蘇家は古くから瑛朝の政治の中枢にいた家。朝廷の古文書や、鳳家以外の霊脈に関する記録を持っている可能性がある」
麗華は窓の外を見た。祭りの翌朝の鳳凰領。穏やかで、豊かで、食の匂いに満ちた領地。片づけの終わっていない屋台の骨組みが陽光に照らされ、子供が昨夜の灯籠の残骸で遊んでいる。
この平穏の下に、嵐が近づいている。
「春蘭。情報網にさらなる調査を指示して。蘇家の人員の動きを逐一追わせること。特に鳳凰領に接近する経路を洗い出して」
「かしこまりました」
「暁風」
「ああ」
「鳳凰領の外縁部の警戒を強化してください。特に霊脈の露頭がある方角。不審な人物が近づいていないか、領民からも聞き込みを」
「承知した」
暁風が剣を握り直した。帯の上で、鞘が小さく鳴った。金属の冷たい音が、台所の温かな空気を一瞬だけ切り裂いた。
「来るなら来い。ここは俺が——」
言いかけて、止まった。
「俺が」の後に続く言葉を、暁風は飲み込んだ。
皇帝のために守る——ではなかった。
この領地を守る。この食卓を守る。ここにいる人たちを守る。
いつからか、「忠義」の向かう先が変わっていた。暁風自身がそれに気づいているのかどうか——麗華には、わからなかった。だが暁風の目を見れば、分かることがある。この男は——本気だ。
「朝食、冷めますよ」
麗華の声が、部屋の空気を少しだけ和らげた。
三人は卓を囲んだ。白粥に祭りの残り物、焼き餅。昨夜の祭りの余韻が残る、静かな朝食だった。粥は穀物の優しい甘みがあり、角煮の残りは一晩置いて味が染みている。焼き餅は冷めてもちもちの食感になっていて、それはそれで旨い。
だが味を噛みしめる余裕は、今朝はなかった。粥の温かさが喉を通る間も、三人の頭の中では同じ問いが回り続けていた。
(蘇家の標的は、鳳凰領の何なのか)
平穏な朝食が——嵐の前の最後の一口に、なりはしないかと。
窓の外では、鳳凰領の一日が始まっていた。祭りの片づけをする領民の声が聞こえ、子供が笑い、鶏が鳴いている。
何も変わらない日常。だがその日常の下で、蘇家の駒が動き始めている。
麗華は粥の碗を置き、静かに目を閉じた。
(——来るなら来なさい。この領地は、わたくしが守る)
その決意の中に、今はもう——「一人で」という言葉はなかった。




