翠微の涙
収穫祭の本番は、朝から晴天に恵まれた。
鳳凰領の中央広場に屋台が並び、領民が家族連れで繰り出している。子供が駆け回り、老人が木陰で酒を酌み交わし、楽師の笛や太鼓が陽気に鳴り響く。穀物で作った飾り輪が軒先に掲げられ、秋の陽光を受けて金色に輝いていた。空は雲一つない秋晴れで、乾いた風が穀物の甘い匂いを運んでくる。
広場の入口には「鳳凰領収穫祭」と書かれた大きな横幕が掛けられ、その下を領民たちが笑顔で行き交っている。赤ん坊を背負った母親、腕を組む夫婦、袖を引っ張り合う子供たち。一年の労苦が報われる日だ。
翠微は広場の端に立っていた。
目の前に、小さな竈と鉄鍋が据えられている。翠微が選んだ穀物——あの穀倉で「一番元気だ」と聞き分けた稲で炊いた白飯を、おにぎりにして領民に振る舞うのだ。
麗華が課題の仕上げとして提案したことだった。翠微は穀物を選ぶところまではやった。だが選んだ穀物がどんな味になるのか——それは、食べてもらわなければ分からない。
「翠微。準備はいい?」
「は、はい。……でも先生、あたし、料理なんて——」
「おにぎりよ。握るだけ。形が悪くても味は変わらない」
翠微の手が震えていた。緊張している。名門でも何でもない農家の少女が、収穫祭の広場で鳳凰領の民に食べ物を出す。それ自体が途方もないことに思えるのだろう。顔が青ざめ、指先が白くなるほど拳を握っている。
だが麗華は、翠微の選んだ穀物の力を信じていた。
「大丈夫。お前が選んだ米は、間違いなく今年の最上よ」
翠微が大きく息を吸い、頷いた。
「——やります」
鉄鍋の蓋を開けた。湯気が立ち昇る。
炊きたての白飯の匂いが、広場に漂った。
穀物の甘い香り。地養の力を受けた米だけが持つ、濃密で清らかな香り。一般の米が持つ穀物臭とは次元が違う。炊きたての湯気に乗って広がるその匂いは、鼻に届いた瞬間に腹が鳴るような、本能に訴える芳香だった。近くを通りかかった領民が、ふと足を止めた。
「いい匂いだ。何を炊いているんだ?」
「あの——今年の収穫の中から、あたしが選んだお米です。おにぎり、いかがですか」
翠微が差し出したおにぎりは、形がいびつだった。三角にしようとして丸くなり、丸くしようとして潰れかけている。手に力が入りすぎて、一つは崩れかけた。だが白い米粒が艶やかに光り、湯気を立てている。
領民の男がおにぎりを受け取り、一口頬張った。
咀嚼が止まった。
「——旨い」
男の目が見開かれた。
「旨いぞ、これ。米だけでこんなに違うのか? いつもの鳳凰領の米よりも——何というか、甘みが深い。噛むたびに味が出てくる。塩も振っていないのに、米だけでこんなに」
その声を聞きつけて、人が集まってきた。翠微は次々とおにぎりを握り、差し出した。いびつな形のおにぎりが、一つ、二つ、三つと領民の手に渡っていく。翠微の手つきは覚束ないが、懸命に握っている。額に汗が浮かび、三つ編みの毛先が頬に張り付いていた。
「本当だ、旨い」
「何が違うんだ? 米の種類か?」
「この子が選んだ米だと? へえ、見る目があるな」
「こんな旨い米、久しぶりに食った」
領民の顔に笑みが広がっていく。素朴なおにぎりを頬張りながら、翠微の屋台の前に列ができた。
翠微の目に涙が浮かんだ。
美味しいと言ってもらえた。自分が選んだ穀物が、人の口に入り、笑顔を生んだ。幼い頃から「畑の声が聞こえる」と言って誰にも信じてもらえなかった力が——今、食を通じて初めて認められた。
「美味しいって……美味しいって、言ってもらえた」
握りかけのおにぎりを持ったまま、翠微の頬を涙が伝った。止まらなかった。次々と溢れてくる涙を拭う間もなく、翠微は泣きながら笑い、笑いながら泣いていた。
遠くから、麗華が見ていた。
広場の木陰に立ち、腕を組んで翠微の屋台を眺めていた。領民が次々に「旨い」と声を上げ、翠微が泣きながら笑い、おにぎりを握り続けている。日差しの中で、翠微の涙が光っていた。
(この子は——大丈夫だ)
確信した。翠微の力は本物だ。穀物の声を聞き、最良のものを選び、それを人に届ける。地養術の修行はまだ始まったばかりだが、その根幹にある「食で人を生かす」力は、すでに芽吹いている。食は——人を繋ぐものだ。作る者と食べる者を。翠微はその繋がりを、今日初めて自分の力で紡いだ。
「先生!」
翠微が列の向こうから麗華を見つけ、声を上げた。涙と笑顔でぐちゃぐちゃの顔で、おにぎりを一つ掲げている。
「先生! 皆が美味しいって!」
翠微が走ってきた。列を抜けて、全速力で。手にはいびつなおにぎりが一つ。形は歪で、角が潰れ、米粒がところどころ飛び出している。だが湯気が立ち、穀物の甘い匂いを放っていた。
「先生にも食べてほしいです! あたしが選んだお米で作ったおにぎり!」
麗華はおにぎりを受け取った。
まだ温かい。形は歪で、大きさもまちまち。だが米粒の一つ一つが輝いていた。地養の力を受けた穀物だけが持つ、透き通った艶。
一口、頬張った。
米の甘みが口に広がった。地養の力を受けた穀物だけが持つ、深く澄んだ甘さ。噛むほどに味が増し、喉を通った後にも余韻が残る。ただの白飯だ。塩すら振っていない。なのに——旨い。穀物そのものの力が、味として舌に届いている。
「……よくやったわ」
麗華が言った。穏やかに微笑み、翠微の頭に手を置いた。三つ編みの上から、ぽんと軽く撫でる。
「よくやった。翠微」
翠微の涙が、また溢れた。今度は嬉し涙だけだった。
「ありがとうございます、先生。あたし——あたし、もっと頑張ります」
「ええ。頑張りなさい」
広場では祭りが続いていた。太鼓が鳴り、笛が奏でられ、子供が走り、老人が笑う。翠微のおにぎりはあっという間になくなり、鉄鍋の飯粒の最後の一つまで、領民の腹に収まった。
秋の陽が傾き始めた頃、翠微は空の鉄鍋を抱えて笑っていた。
鳳凰領の収穫祭は、今年も豊かだった。




