表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

84/138

翠微の涙

 収穫祭の本番は、朝から晴天に恵まれた。


 鳳凰領の中央広場に屋台が並び、領民が家族連れで繰り出している。子供が駆け回り、老人が木陰で酒を酌み交わし、楽師の笛や太鼓が陽気に鳴り響く。穀物で作った飾り輪が軒先に掲げられ、秋の陽光を受けて金色に輝いていた。空は雲一つない秋晴れで、乾いた風が穀物の甘い匂いを運んでくる。


 広場の入口には「鳳凰領収穫祭」と書かれた大きな横幕が掛けられ、その下を領民たちが笑顔で行き交っている。赤ん坊を背負った母親、腕を組む夫婦、袖を引っ張り合う子供たち。一年の労苦が報われる日だ。


 翠微は広場の端に立っていた。


 目の前に、小さなかまどと鉄鍋が据えられている。翠微が選んだ穀物——あの穀倉で「一番元気だ」と聞き分けた稲で炊いた白飯を、おにぎりにして領民に振る舞うのだ。


 麗華が課題の仕上げとして提案したことだった。翠微は穀物を選ぶところまではやった。だが選んだ穀物がどんな味になるのか——それは、食べてもらわなければ分からない。


「翠微。準備はいい?」


「は、はい。……でも先生、あたし、料理なんて——」


「おにぎりよ。握るだけ。形が悪くても味は変わらない」


 翠微の手が震えていた。緊張している。名門でも何でもない農家の少女が、収穫祭の広場で鳳凰領の民に食べ物を出す。それ自体が途方もないことに思えるのだろう。顔が青ざめ、指先が白くなるほど拳を握っている。


 だが麗華は、翠微の選んだ穀物の力を信じていた。


「大丈夫。お前が選んだ米は、間違いなく今年の最上よ」


 翠微が大きく息を吸い、頷いた。


「——やります」


 鉄鍋の蓋を開けた。湯気が立ち昇る。


 炊きたての白飯の匂いが、広場に漂った。


 穀物の甘い香り。地養の力を受けた米だけが持つ、濃密で清らかな香り。一般の米が持つ穀物臭とは次元が違う。炊きたての湯気に乗って広がるその匂いは、鼻に届いた瞬間に腹が鳴るような、本能に訴える芳香だった。近くを通りかかった領民が、ふと足を止めた。


「いい匂いだ。何を炊いているんだ?」


「あの——今年の収穫の中から、あたしが選んだお米です。おにぎり、いかがですか」


 翠微が差し出したおにぎりは、形がいびつだった。三角にしようとして丸くなり、丸くしようとして潰れかけている。手に力が入りすぎて、一つは崩れかけた。だが白い米粒が艶やかに光り、湯気を立てている。


 領民の男がおにぎりを受け取り、一口頬張った。


 咀嚼が止まった。


「——旨い」


 男の目が見開かれた。


「旨いぞ、これ。米だけでこんなに違うのか? いつもの鳳凰領の米よりも——何というか、甘みが深い。噛むたびに味が出てくる。塩も振っていないのに、米だけでこんなに」


 その声を聞きつけて、人が集まってきた。翠微は次々とおにぎりを握り、差し出した。いびつな形のおにぎりが、一つ、二つ、三つと領民の手に渡っていく。翠微の手つきは覚束ないが、懸命に握っている。額に汗が浮かび、三つ編みの毛先が頬に張り付いていた。


「本当だ、旨い」


「何が違うんだ? 米の種類か?」


「この子が選んだ米だと? へえ、見る目があるな」


「こんな旨い米、久しぶりに食った」


 領民の顔に笑みが広がっていく。素朴なおにぎりを頬張りながら、翠微の屋台の前に列ができた。


 翠微の目に涙が浮かんだ。


 美味しいと言ってもらえた。自分が選んだ穀物が、人の口に入り、笑顔を生んだ。幼い頃から「畑の声が聞こえる」と言って誰にも信じてもらえなかった力が——今、食を通じて初めて認められた。


「美味しいって……美味しいって、言ってもらえた」


 握りかけのおにぎりを持ったまま、翠微の頬を涙が伝った。止まらなかった。次々と溢れてくる涙を拭う間もなく、翠微は泣きながら笑い、笑いながら泣いていた。


 遠くから、麗華が見ていた。


 広場の木陰に立ち、腕を組んで翠微の屋台を眺めていた。領民が次々に「旨い」と声を上げ、翠微が泣きながら笑い、おにぎりを握り続けている。日差しの中で、翠微の涙が光っていた。


(この子は——大丈夫だ)


 確信した。翠微の力は本物だ。穀物の声を聞き、最良のものを選び、それを人に届ける。地養術の修行はまだ始まったばかりだが、その根幹にある「食で人を生かす」力は、すでに芽吹いている。食は——人を繋ぐものだ。作る者と食べる者を。翠微はその繋がりを、今日初めて自分の力で紡いだ。


「先生!」


 翠微が列の向こうから麗華を見つけ、声を上げた。涙と笑顔でぐちゃぐちゃの顔で、おにぎりを一つ掲げている。


「先生! 皆が美味しいって!」


 翠微が走ってきた。列を抜けて、全速力で。手にはいびつなおにぎりが一つ。形は歪で、角が潰れ、米粒がところどころ飛び出している。だが湯気が立ち、穀物の甘い匂いを放っていた。


「先生にも食べてほしいです! あたしが選んだお米で作ったおにぎり!」


 麗華はおにぎりを受け取った。


 まだ温かい。形は歪で、大きさもまちまち。だが米粒の一つ一つが輝いていた。地養の力を受けた穀物だけが持つ、透き通った艶。


 一口、頬張った。


 米の甘みが口に広がった。地養の力を受けた穀物だけが持つ、深く澄んだ甘さ。噛むほどに味が増し、喉を通った後にも余韻が残る。ただの白飯だ。塩すら振っていない。なのに——旨い。穀物そのものの力が、味として舌に届いている。


「……よくやったわ」


 麗華が言った。穏やかに微笑み、翠微の頭に手を置いた。三つ編みの上から、ぽんと軽く撫でる。


「よくやった。翠微」


 翠微の涙が、また溢れた。今度は嬉し涙だけだった。


「ありがとうございます、先生。あたし——あたし、もっと頑張ります」


「ええ。頑張りなさい」


 広場では祭りが続いていた。太鼓が鳴り、笛が奏でられ、子供が走り、老人が笑う。翠微のおにぎりはあっという間になくなり、鉄鍋の飯粒の最後の一つまで、領民の腹に収まった。


 秋の陽が傾き始めた頃、翠微は空の鉄鍋を抱えて笑っていた。


 鳳凰領の収穫祭は、今年も豊かだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ