月と二人
祭りの喧噪が遠くなった。
暁風が「少し静かなところへ行かないか」と言い、麗華は頷いた。なぜ頷いたのか、自分でもよく分からなかった。祭りの夜に二人きりで丘に登る理由など、冷静に考えればない。だが暁風の声に、断る理由を探す気が起きなかった。
二人は屋台通りを離れ、領地の南にある丘を登った。緩やかな傾斜を草を踏みながら登っていく。秋の草が靴の下で乾いた音を立て、虫が足元から飛び立った。
丘の頂には古い石の祠があり、その前に平らな岩が一枚、月見台のように鎮座している。鳳凰領を一望できる場所で、眼下に灯籠の灯りが星屑のように散らばっていた。祭りの太鼓と笛の音が遠くから聞こえ、かすかに甘酒の匂いが風に乗ってくる。
秋の夜風が頬を撫でた。涼しいが、祭りで火照った体にはちょうどいい。
暁風が岩に腰を下ろした。麗華もその隣に座った。二人の間は、肩一つ分ほどの距離。近くもなく、遠くもない。後宮の距離感で言えば「親しいが踏み越えていない」距離だ。
空には半月が懸かっていた。雲一つない秋の夜空に、冴えた白い光を落としている。月の光が丘の草を銀色に染め、石の祠に長い影を落としていた。
「ここの飯は旨い」
暁風が唐突に言った。
「……それだけですか?」
麗華が微かに笑った。
暁風が一瞬、口をつぐんだ。
「……それだけだ」
目を逸らした。暁風の耳が、月の光の下でもわかるほど赤くなっていた。
(嘘ばかり)
麗華は心の中で呟いた。この男は嘘がつけないのだ。「それだけだ」と言いながら目を逸らし、耳を赤くする。飯が旨いだけなら、わざわざ二人きりで丘に登る必要はない。後宮で三年間、腹芸の達人たちに囲まれて暮らした麗華にとって、暁風の嘘は透き通った硝子のように透けて見える。
だが、追求はしなかった。追求してしまえば、何かが変わってしまう気がした。
「お酒でも飲みますか」
麗華は袖の中から小さな壺を取り出した。祭りの屋台で買った桂花酒だ。丸い陶器の壺に、桂花の花弁を描いた素朴な絵付け。
「用意がいいな」
「祭りの夜ですもの」
壺の栓を抜くと、桂花の甘い香りが立ち昇った。夜風が香りを運び、秋の草の匂いと混ざり合う。麗華は壺から直接、二つの小さな杯に酒を注いだ。琥珀色の液体が月光を受けて光る。金色に近い琥珀色で、中に桂花の花弁が一枚、浮かんでいた。
「この酒は鳳凰領でしか作れません。地養の力を受けた桂花から搾った蜜を、穀物の酒に合わせたもの。花の香りが三日残ると言われています」
「三日も残るのか」
「口の中に、ではなく。飲んだ人の記憶に」
暁風が杯を受け取り、一口含んだ。
甘い。ただの甘さではない。桂花の香りが口腔を満たし、喉を下り、腹の底まで温かく沁み渡る。軍の粗い酒とは別の飲み物だった。酔いよりも先に、花の香りが頭の中に広がっていく。
「……旨い」
「いつもそれですね」
「他に何と言えばいい」
「語彙が乏しいですね、将軍殿は」
「あんたの料理は語彙を奪う」
麗華が小さく吹き出した。暁風が驚いた顔をした。麗華がこんなふうに声を立てて笑うのを、見たことがなかったのだろう。口元を手で隠しているが、目元が弧を描いている。後宮の「微笑みの貴妃」ではない、ただの二十歳の女の笑い方だった。
「——なぜ笑う」
「いいえ。面白いことを仰るものだから。『語彙を奪う』なんて、将軍殿にしては詩的ですこと」
「詩的というのは褒めているのか」
「さあ。どちらだと思いますか」
麗華も桂花酒を一口飲んだ。花の甘さが舌の上で溶け、鼻腔を抜ける。美味しい。だが今夜は酒の味よりも、この場所にいることの心地よさのほうが勝っていた。
沈黙が落ちた。
虫の声が遠くに聞こえる。眼下の鳳凰領では、まだ祭りの喧噪が続いている。灯籠の灯りが揺れ、太鼓の音が微かに届く。だが丘の上は静かだった。月と星と、桂花酒の香りだけがある場所。
「暁風」
「何だ」
「鳳凰領に来てから、どれくらい経ちましたか」
「……半年と少しか」
「長いですか、短いですか」
暁風は答えなかった。しばらく月を見上げてから、低い声で言った。
「長い気もするし、短い気もする」
「曖昧ですね」
「……ああ」
もう一度、沈黙が流れた。居心地のいい沈黙だった。何かを言わなければならない圧迫がない。ただ同じ月を見上げ、同じ酒を飲み、同じ秋の夜風を感じている。
麗華は杯を傾け、最後の一口を飲み干した。桂花の余韻が舌に残る。三日残るという、その記憶の中に——この夜のことも刻まれるのだろうか。
「そろそろ戻りましょうか。春蘭と翠微が心配しているかもしれません」
「ああ」
暁風が先に立ち上がった。そして、丘を下りようとする麗華に——手を差し伸べた。
「足元が暗い。掴まれ」
麗華は一瞬、その手を見つめた。
武人の手だ。大きく、硬く、剣だこが指先に残っている。月の光の下で、その手の輪郭だけが白く浮かんでいる。差し出された掌は、不思議と優しく見えた。
「……失礼します」
麗華が暁風の手を取った。
温かかった。
想像していたよりも、ずっと。剣を振る手なのに、こんなに温かい。掌の硬さと、指の間の柔らかさと、伝わってくる体温と。
暁風が先導して丘を下りた。石の多い急な斜面を、麗華の歩幅に合わせてゆっくりと進む。手を引かれるまま、麗華は足元の石に気をつけながら下りた。暁風の手の温かさが、握った指の間から腕を伝わり、心臓のあたりまで届いた。
平地に出た。
暁風が手を離した。
離された瞬間、掌に残った温かさが急に消えた。秋の夜風が指の間をすり抜け、冷たさが戻ってくる。
麗華は——自分の掌を見た。
何も変わっていない。同じ手だ。後宮で茶を点て、帳簿を捌き、地養術で土に触れてきた手。何百回と何かに触れてきた。
だが今、この手は——暁風の手の温度を覚えていた。
(……これは)
思考を止めた。止めなければならなかった。
「お嬢様ー! 将軍どのー!」
春蘭の声が聞こえた。祭りの灯りの中から、翠微と春蘭が駆けてくる。翠微は両手に焼き栗の包みを抱え、頬を紅潮させている。
「先生! 焼き栗、すっごく美味しかったです! 先生の分も買いました!」
「ありがとう」
麗華は笑った。穏やかな笑みだった。
暁風は黙って前を歩いていた。その横顔に、月明かりが白く落ちている。
手の温かさが、一瞬だけ——ほんの一瞬だけ長く、麗華の掌に残っていた。




