祭りの準備
秋の収穫祭が近づくと、鳳凰領の空気が変わる。
農夫たちは田畑の仕上げに追われ、商人たちは祭りの品を運び込み、子供たちは屋台の菓子を待ちきれずにそわそわしている。鳳凰領にとって収穫祭は一年で最も大切な行事だ。大地の恵みに感謝し、来年の豊穣を祈る。荒地ばかりの瑛朝にあって、鳳凰領だけがこの祭りを毎年催せることは、この土地の誇りでもあり、責任でもあった。
街路には色とりどりの飾り紐が張られ、軒先に穀物の穂を束ねた飾り輪が掲げられている。どの家の前にも、今年の収穫の一部を盛った皿が供えられていた。大地への感謝の印だ。
麗華は翠微に、最初の実地課題を出した。修行場で毎朝行う瞑想とは違う、実践の場だ。
「祭りの料理で使う穀物を選びなさい」
「えっ——あたしがですか?」
「そうよ。穀倉に行って、すべての穀物に触れなさい。そして一番良いものを選びなさい。基準はお前の耳に任せる」
翠微は目を丸くした。修行を始めてまだ日が浅い。霊脈に意識を向ける瞑想を毎朝やっているだけで、まだ何一つ「できた」と言える段階ではない。穀物に力を注ぐことも、霊脈を制御することもできない。
「あたしに……分かるんですか?」
「分からなければ、それも修行よ。行ってきなさい」
翠微は不安げに頷き、穀倉へ向かった。
鳳凰領の穀倉は大きな木造の建物で、今年の収穫が次々と運び込まれていた。粟、稲、黍、小麦。袋ごとに区分けされ、棚に整然と並んでいる。穀倉の中は乾いた穀物の匂いが充満していた。穀物特有の甘く粉っぽい香り。天窓からの光が穀物の山を金色に染め、空気中に漂う微細な粉が光の柱の中で舞っている。
翠微は穀物の袋の前に立った。袋の列が棚に整然と並び、穀物の甘い匂いと乾いた藁の香りが混ざった空気が鼻をくすぐる。
目を閉じた。
呼吸を整え、足の裏で床の温度を感じる。穀倉の床板の下にある大地の脈動が、微かに足先に伝わってくる。
両手を穀物の袋に当てた。
最初は何も聞こえなかった。穀倉の静寂と、遠くの祭り準備の喧噪だけ。翠微は焦らなかった。先生——麗華に教わったとおり、呼吸を整え、意識を手のひらの先に集中する。足の裏を通じて大地の温度を感じ、その温度と同じ波長で手のひらを開く。
やがて、かすかに何かが伝わってきた。
温かさ。穀物の中に残っている、大地の記憶のようなもの。霊脈の力を受けて育った穀物は、収穫された後もその残り香を保っている。翠微の耳には、それが音として聞こえた。
「この子は……静かに眠ってる」
次の袋に手を当てた。
「この子は元気。まだ起きてる感じ」
一袋ずつ、丁寧に触れていく。穀物の一つ一つに「声」がある。大きな声、小さな声、眠っている声、まだ歌っている声。同じ稲でも、区画が違えば声も違う。同じ区画でも、収穫の時期が違えば声の高さが変わる。
翠微は穀倉の奥まで進んだ。棚の最上段、奥から二番目の袋。手を当てた瞬間、翠微の目が開いた。
「……この子が一番元気です」
稲穂の袋だった。他の袋と見た目は変わらない。だが翠微の手のひらには、明らかに異なる振動が伝わっていた。温かく、力強く、まるで心臓の鼓動のように——穀物が生きている。他の袋が寝息を立てているとすれば、この袋だけが朝の歌を歌っているかのようだった。
穀倉の入口で待っていた麗華に、翠微が袋を指さして報告した。
「先生。この子が一番元気です。声が大きくて、まだ歌ってるみたいなんです」
麗華は翠微が選んだ袋に手を当てた。目を閉じ、霊脈の感覚で確かめる。根のように広がる感覚が穀物の中に入り込み、残留する霊脈の力を読み取った。
間違いなかった。この袋の穀物は霊脈の力が最も強く残っており、品質としても最上級だ。麗華が地養術を施した区画の中でも、最も丁寧に力を注いだ一角の収穫だった。麗華の「感じる」力でも判別できる——だが翠微は、何の訓練もなく「聞く」ことでそれを選び出した。
「合格よ」
麗華が微笑んだ。
「先生——本当ですか!?」
「この穀物は確かに今年の収穫の中で最も霊脈の力が濃い。お前の耳は正確だわ」
翠微の顔がぱっと輝いた。飛び跳ねんばかりに喜び、両手を握り合わせている。穀倉の薄暗い中で、その笑顔だけが眩しかった。
「やった——あたし、聞こえたんだ。穀物の声が、ちゃんと」
「浮かれるのは早いわよ。これを祭りの料理に使うの。さあ、運びなさい」
「はい!」
翠微が嬉しそうに穀物の袋を抱え上げた。小柄な体に似合わず力が強い。農家の娘の底力だ。袋を両腕で抱え、足元がふらつきながらも意気揚々と穀倉を出ていく。
麗華は翠微の後ろ姿を見送りながら、穀倉の中を見回した。穀物が棚に整然と並び、天窓の光が金色の筋を引いている。
(穀物の声を聞く力)
麗華にはない能力。鳳家の秘伝書にも記載のない感覚。翠微の素質は——やはり、麗華が知っている地養術の枠に収まらない何かを持っている。
穀倉を出ると、祭りの準備に沸く鳳凰領の街並みが広がっていた。商人が反物を並べ、職人が屋台の骨組みを立て、子供が走り回っている。空気の中に、どこかの屋台の試作品を焼く匂いが漂っていた。
翠微が選んだ穀物が、明日の祭りの料理になる。
素朴な課題だ。だがその課題を通じて翠微が掴んだものは、教科書の百頁分に値する。自分の力で穀物を選び、それが「正解」だと認められた。翠微にとって、それは初めての——地養術の成功体験だ。幼い頃から「畑の声が聞こえる」と言って信じてもらえなかった少女が、自分の耳を信じて穀物を選び、師匠に「合格」と言われた。
(この子は伸びる)
確信があった。同時に、教える側の責任の重さが、肩にのしかかるのを感じた。
祭りの準備に忙しい領民の間を歩きながら、麗華は明日の料理の段取りを頭の中で組み立てていた。翠微が選んだ穀物に、どんな味を与えるか。収穫祭にふさわしい、鳳凰領の食の力を見せる一品を。




