少し、見てみるか?
数日の葛藤の末に、麗華は翠微を農地に呼んだ。
朝露が光る畑の端。鳳凰領の穀倉地帯のうち、麗華が日常的に地養術を施している区画だ。稲穂が重く頭を垂れ、黄金色の海のように広がっている。秋の朝日が斜めに差し込み、穂先の一粒一粒が金色に光っていた。露に濡れた稲の葉が風に揺れ、さらさらと乾いた音を立てている。
翠微は少し遅れて走ってきた。息を切らし、三つ編みが乱れている。素朴な農家の着物の裾が土で汚れていた。来る途中で畑の畦道を駆けてきたのだろう。
「すみません、先生——あ、いえ、麗華さま。遅れました」
「先生、でいいわ」
麗華は自分でも驚いた。口をついて出た言葉が「先生でいい」だったということは、もう腹を決めていたのだろう。秘伝書と向き合い、祖父に問い、暁風の言葉を噛みしめ、翠微の母の涙を見た。答えは——もう出ていた。
翠微の目が丸くなった。
「えっ——じゃあ、あの、先生って呼んでいいんですか?」
「少し、わたくしの仕事を見てみないか?」
翠微は何度も頷いた。全身で頷く少女だった。頭だけでなく、肩も体も前に揺れる。
麗華は畑の中に入った。稲穂の間を歩き、一区画の中心に立つ。足元の土は濃い茶色で、霊脈の力が行き渡った証だ。踏みしめると柔らかく沈み、土の匂いが立ち上る。
「よく見ていなさい」
麗華は両膝をつき、土に手を当てた。
指先から淡い緑色の光が溢れた。柔らかな翡翠色。光は指先から土に染み入り、根を伝い、穀物の茎を上っていく。まるで地面の下に光の根が伸びていくように、緑色の筋が土の中に広がっていった。
地養術。
霊脈の力を穀物の根に注ぎ、枯れた土地でも作物を育てる鳳家秘伝の術。百年前の大災で荒地と化した瑛朝の国土で、唯一食糧を生産し続けることを可能にした力だ。
翠微は息を呑んだ。目を見開き、口が半開きになっている。
麗華の指先が光り、土が温まり、穂先が一瞬で色づく。昨日まで青かった穂が、見る見るうちに黄金に変わっていく。実が膨らみ、穂が重くなり、茎がしなるほどに。一つの区画の穀物が、目の前で収穫期を迎えた。
「——すごい」
翠微の声が震えていた。
「穀物が……笑っています」
麗華は手を止めた。
「笑っている?」
「はい。あたし——聞こえるんです。穀物が『嬉しい』って。お腹いっぱいになったって、喜んでる声が。先生の力が入ってきて、根っこが満たされて——穀物が嬉しくて笑ってるんです」
麗華は翠微の顔を見つめた。日に焼けた顔に、涙が光っている。感動の涙だ。穀物が喜ぶ声が聞こえる。それは麗華にはない感覚だった。麗華は霊脈を「根」のように感じる。力の流れを体で知覚し、制御する。穀物の「感情」など、考えたこともなかった。だが翠微は——穀物の感情を「聞いている」。
「翠微」
「はい」
「お前にも——できると思うか?」
翠微の唇が震えた。明るい茶色の瞳に、怖さと期待が入り混じっている。小さな体が、風に揺れる穂先のように震えていた。
「私にも……できますか?」
「できる。お前ならできる」
麗華の声は静かだが、確信があった。あの霊脈の露頭で見た光。穀物の声を聞く力。翠微には間違いなく素質がある。問題は——素質を術にまで昇華できるかどうかだ。だが翠微の目を見れば分かる。この子は——逃げない。
「はい!」
翠微が全身で答えた。目を輝かせ、拳を握り、体が前のめりになっている。
「やりたいです! あたし、先生みたいに、穀物を育てたい! 皆が食べるお米を、あたしの力で——」
「落ち着きなさい」
麗華が小さく笑った。自分でも久しぶりの、力の抜けた笑い方だった。後宮では見せない笑い方。春蘭と二人きりのとき以外には出てこない笑い方。
「すぐにできるものではないわ。地養術の修行は長い。わたくしも祖父から何年もかかって教わった。何度も失敗して、何度も怒られて、何度も泣いた」
「先生が泣いた——信じられないです」
「余計なことは忘れなさい。——まず、明日から毎朝ここに来なさい。朝食を用意しておくから」
「朝ごはんまで!?」
「空腹では霊脈の声は聞こえない。——これがわたくしの師匠の教えの第一条よ」
翠微の目が更に輝いた。朝食付きの修行。農家の少女にとって、それは夢のような話だったのかもしれない。薄い粥と漬物だけの朝食しか知らない子に、しっかりとした一膳を食べさせてから修行に臨ませる。それが麗華にできる、最初の「師匠の仕事」だった。
「ありがとうございます、先生! 明日——明日、絶対来ます!」
翠微は何度もお辞儀をして走り去った。三つ編みが弾み、裸足の足が畑の畦道を蹴っていく。後ろ姿が穀物の間に消えるまで、「やったー!」という声が聞こえていた。
麗華は一人になった。
畑の真ん中に立ち、空を見上げた。秋の高い空に、白い雲が一つ浮かんでいた。
(祖父様、わたくしは正しい選択をしたのでしょうか)
答えはない。秋の空は高く、青く、何も語らない。
だが胸の中の重しが、少しだけ軽くなった気がした。
翠微に地養術を見せた。後戻りはできない。鳳家の秘伝を、門の外の少女に開く。百年の掟を破る。
(これで良い。——これで良いはずだ)
自分に言い聞かせているのか、本心なのか。まだ判別がつかない。
だが翠微の「穀物が笑っています」という言葉が、耳に残っている。
穀物が笑う。食が喜ぶ。
そんなふうに地養術を感じる者が——鳳家の外にいる。それは脅威ではなく、可能性なのではないか。鳳家が百年間、門を閉ざして守ってきた術に、新しい風が入ること。それは崩壊ではなく——進化なのかもしれない。
風が吹いた。黄金色の穂先が一斉に揺れ、さらさらと音を立てた。
(穀物が笑っている)
麗華には聞こえない。だが翠微の言葉を借りれば——今、この畑の穀物は笑っているのかもしれない。
麗華は畑を出て、屋敷に向かって歩いた。明日の朝食の献立を考えながら。翠微のために何を作ろうか。修行初日にふさわしい、体が温まる一膳を。粟粥に干し棗と蒸し卵。胡麻塩を添えて。祖父がかつて自分にそうしてくれたように。
足取りは軽かった。迷いが消えたわけではない。だが迷いながら前に進むことを、麗華は選んだ。




