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廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


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暁風の助言

 夕暮れの庭園は、桂花の香りに満ちていた。


 秋も深まり、鳳凰領の庭園では桂花けいかが満開を迎えている。夕陽が庭の石畳を赤く染め、池の水面に茜色の光が揺れていた。小さな金色の花が枝いっぱいに咲き、夕風が吹くたびに甘い香りが辺りに漂う。地面には散った花弁が金色の絨毯のように広がり、歩くたびにさくさくと音を立てた。


 東屋あずまやの石卓に、白い茶器が並んでいた。龍井茶ロンジンチャの急須と、二つの茶碗。麗華が淹れた茶の湯気が、夕暮れの空気にゆるく溶けている。


 暁風は東屋の柱に背を預け、腕を組んでいた。巡回帰りの格好で、灰白の袍に土埃がついている。


「翠微の件か」


 麗華が何も言わないうちに、暁風が切り出した。


「どうして分かるのですか」


「ここ数日、あんたの顔が険しい。領地の仕事で険しくなるときとは別の顔だ。食事の支度をしているときも、上の空で塩を二度入れかけていた」


(そこまで見ていたの)


 麗華は内心で舌を巻いた。この男は言葉にするのは下手だが、目で見て状況を把握する能力は恐ろしく高い。監視役としての訓練の賜物か、それとも生来のものか。


「茶をどうぞ」


 麗華は茶碗を暁風に差し出した。暁風が受け取り、一口飲む。龍井茶の苦みの奥にある清涼な甘みが、武人の舌にも分かるらしい。眉がわずかに動いた。茶碗の中で淡い緑色の茶が揺れ、夕日を受けて金色の光を帯びている。


「旨い」


「それはどうも。——ええ、翠微のことで、少し」


 麗華は自分の茶碗を両手で包んだ。湯気が指先を温める。


「秘伝は鳳家の柱です。百年以上、門外不出を貫いてきた。それを簡単に開けるものではありません」


「そうだろうな」


「地養術がなければ鳳凰領は成り立たない。この術が鳳家の外に漏れれば——わたくしたちの立場は崩れる。食糧を武器にしているのも、地養術を独占しているからこそ。朝廷に対する交渉力も、この秘伝の独占の上に成り立っている」


「それも分かる」


 暁風は茶碗を石卓に置いた。碗の底が石に当たり、小さな音が響いた。


「だがな」


「何ですか」


「秘伝を守ることと、次の世代に繋ぐこと——どちらが大事だ?」


 麗華の手が止まった。


 暁風の墨色の瞳が、真っ直ぐに麗華を見ていた。駆け引きのない目だ。政治の言葉でも外交の言葉でもない。ただ、目の前の問いに対して最も簡潔な答えを求める武人の目。後宮で三年間、腹芸と策略の言葉ばかり聞いてきた麗華にとって、暁風の真っ直ぐさは時折、胸に突き刺さる。


「秘伝を守り続けて、あんたが倒れたらどうなる」


「……倒れませんよ」


「今はな。だが十年後は? 二十年後は? あんたの祖父は七十八だ。あの人が術を使えなくなったとき、この領地を支えるのはあんた一人だ。一人で——ずっとやるのか」


 麗華は答えなかった。


 答えられなかった。


 一人でやってきた。ずっと。後宮でも、廃妃の後も、食糧戦略を組んだのも、地養術で鳳凰領を支えてきたのも。一人で考え、一人で決め、一人で背負ってきた。


 それが鳳家の当主というものだと思っていた。祖父がそうしてきたように。祖父の父がそうしてきたように。


「わかっています」


 声が震えた。自分でも驚くほど小さな声だった。後宮で鍛えた感情の制御が、ほんの一瞬だけ綻んだ。


「わかっているのですが——」


 言葉が途切れた。


 暁風は何も言わなかった。急かさず、励まさず、ただ東屋の柱にもたれたまま、麗華のそばにいた。


 沈黙が流れた。庭園の桂花が夕風に揺れ、花弁が一つ、石卓の上に落ちた。金色の小さな花弁が、龍井茶の湯気の近くで静かに横たわった。茶碗から立ち昇る湯気が細くなり、空が茜色から薄紫に変わっていく。鳳凰領の方角から、炊飯の煙が何本も立ち上っている。夕餉の支度が始まったのだ。


 その沈黙は、不思議と居心地が悪くなかった。


 後宮にいた頃の沈黙は、いつも何かを企む沈黙だった。誰が先に口を開くか、誰が先に本音を漏らすか。沈黙は武器であり、罠だった。


 だが暁風との沈黙は違う。何も測らず、何も仕掛けず、ただ同じ場所で同じ空気を吸っている。それだけの沈黙。桂花の香りと、龍井茶の残り香と、遠くの炊飯の煙と。


 暁風が立ち上がった。


「俺は先に戻る」


「……はい」


 暁風が東屋を出て、庭園の石畳を歩いていく。背中が遠ざかりかけたとき、足が止まった。振り向かなかった。背中だけが、夕日を受けて橙色に染まっている。


「あんたが決めればいい」


 背中越しに言った。


「俺はどっちでも、あんたの味方だ」


 それだけ言って、歩き出した。灰白の麻袍の背中が、夕闇に溶けていく。大きな背中だ。武人の背中。だがその背中から発せられた言葉は、剣よりも重かった。


 麗華は石卓の上の茶碗を見つめた。暁風の飲みかけの龍井茶が、まだほんのりと温かかった。


(味方だ、と)


 後宮で三年、朝廷との交渉を経て、帝都と戦い、鳳凰領を守ってきた。その間、「味方だ」と言ってくれた人間は——春蘭と祖父を除けば、いなかった。


 あの男は不器用だ。言葉を選ぶのが下手で、感情を伝えるのが苦手で、表情に全部出てしまう。政治の駆け引きは壊滅的に下手だし、食の好みは庶民的だし、褒め言葉は「旨い」しか知らない。


 だが——「味方だ」の一言が、こんなに深く刺さるのは、あの男が嘘をつけない人間だからだ。暁風が「味方だ」と言えば、それは文字通りの意味でしかない。裏も策もない。ただ、味方だと。


 麗華は龍井茶の最後の一口を飲み干した。


 苦みの後に、清涼な甘みが広がった。上質な龍井茶だけが持つ余韻。舌の上に残る甘さが、暁風の言葉の余韻と重なった。


 茶碗を卓に置き、空を見上げた。最初の星が、薄紫の空に瞬いていた。


(暁風)


 名前を、心の中でだけ呼んだ。


(——ありがとう)


 口には出さなかった。出せなかった。だが桂花の香りに包まれた東屋で、麗華の唇がかすかに——ほんのかすかに、笑みの形を作った。


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