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廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


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翠微の事情

 鳳凰領の外れに、翠微の家はあった。


 農村の中でも端のほうに位置する小さな家だ。土壁に藁葺きの屋根。柱は傾きかけており、軒先の梁には継ぎ当てが何箇所も見える。裏手に細長い畑があり、その畑だけが妙に青々としていた。周囲の農地が秋の色に沈み始めているのに、翠微の家の畑だけが生命力に溢れている。それ自体が、少女の素質の証だった。


 麗華は春蘭を供に連れず、一人で翠微の家を訪ねた。鳳家の当主として正式に使者を送る手もあったが、あえてそうしなかった。鳳家の権威で圧するのではなく、一人の術者として、素質を持つ少女の家族と向き合いたかったからだ。


 戸口を叩くと、応答があるまでしばらくかかった。出てきたのは痩せた中年の女性だった。頬がこけ、手の甲に浮いた血管が苦労の年月を物語っている。しかし身なりは清潔で、質素ながら丁寧に繕われた着物を着ていた。襟元の縫い目は何度も繕い直されているが、糸の一針一針が真っ直ぐで、この人の性格が窺えた。


「鳳の——まさか、お嬢様ですか」


 翠微の母は目を丸くした。鳳凰領の実質的な当主が、一農家の戸口に立っている。腰を折って何度も頭を下げる母に、麗華は穏やかに声をかけた。


「驚かせてすみません。少し、お話を伺いたくて参りました」


「どうぞ、どうぞお入りください。散らかっておりますが——」


 通された部屋は狭く、天井が低かった。土間から一段上がった板の間に、古い卓と椅子が二脚。壁には農具が掛けられ、隅に穀物の袋が数俵積まれている。貧しい。しかし掃き清められた床と、卓の上に一輪挿しの野花が飾られているのを見て、麗華はこの家の人間の人柄を察した。貧しくとも、暮らしに美しさを忘れない人たちだ。


「翠微は畑に出ております。呼んで参りましょうか」


「いいえ。今日はお母様にお話があるのです」


 母は不安そうな顔をした。何か粗相でもしたのだろうかと、指先が衣の裾を握りしめている。


「ご安心ください。悪い話ではありません」


 麗華はそう言いつつ、卓の上を見た。小さな盆に、薄い粥の入った碗と漬物の皿が残っている。朝食の名残だろう。粥は重湯に近い薄さで、米粒が碗の底に数えられるほどしかない。漬物は一切れだけだった。


(この食卓で、あの子は育ったのか)


 鳳凰領の中でも貧しい部類に入る食卓だ。鳳凰領は瑛朝で唯一豊かな土地だが、それでも貧富の差はある。領地の恵みが行き届かない家もある。


 だが漬物に目が留まった。一切れだけの漬物。色も香りも、鳳凰領の他の農家で出るものとは明らかに違う。鮮やかな緑色が目に眩しく、漬物石の押し加減が絶妙なのか、切り口が均一で美しい。そして何より——匂いが違う。野菜が本来持つ瑞々しい香りが、漬物になってもなお残っている。


「この漬物は?」


「翠微が育てた青菜で漬けたものです。あの子の畑の野菜は、なぜか味がいいのですよ。同じ種を蒔いて、同じ水を遣っているのに、翠微が世話をした畝だけ、別物のように美味しくなるんです」


 母は恥ずかしそうに笑った。


 なぜか味がいい。——なぜかではない。翠微の素質が、無意識に畑の土壌を整えているのだ。霊脈の力に応じる体質が、翠微の触れた土地の穀物や野菜を、知らず知らずのうちに活性化させている。鳳凰領の貧しい一角で、名も知らぬ少女が知らず知らずのうちに地養の力を振るっていた。


「お母様。率直に申し上げます」


 麗華は背筋を正し、母の目を見た。


「翠微さんには、特別な才能があります。——地養術の素質です」


「地養術……鳳家の、あの」


 母の顔から血の気が引いた。鳳凰領の民なら誰でも知っている。地養術は鳳家の秘伝であり、この領地の食糧を支える根幹だ。その術の「素質」が自分の娘にあるなど、農家の母にとっては天地がひっくり返るような話だろう。


「わたくしのもとで翠微さんを学ばせたい。地養術の基礎を教え、あの子の力を伸ばしたいのです」


「で、でも——うちは何の家柄もない農家でございます。鳳家様の秘伝を、うちの娘などが——」


「家柄は問いません」


 麗華の声は静かだが、揺るぎがなかった。


「翠微さんの力は本物です。このまま放っておけば、力が制御できずに本人が苦しむかもしれない。正しく導く者が必要なのです」


 母の目に涙が浮かんだ。唇が震え、言葉を探すように何度か口を開閉した。やがて、堰を切ったように語り始めた。


「あの子は……幼い頃から、畑に入ると『声が聞こえる』と申しまして。『土がお腹すかせてる』とか、『この畑は元気がない』とか。親には何のことか分かりませんでした。周りの子供にもからかわれて、一時は口に出さなくなったのです。でもやめたわけではなく——今でも一人で畑に出ると、ずっと土に手を当てて何かを聴いているのです」


 母は涙を拭った。


「でも、嘘ではなかったのですね。あの子の言うことは——本当だったのですね」


「はい。翠微さんの感覚は、地養術の素質そのものです。嘘でも思い込みでもありません。あの子は——大地の声を聞ける、稀有な力を持っています」


 母が深く頭を下げた。額が卓に当たるほどの礼だった。


「この子の力を認めてくださる方がいたとは……ありがとうございます。どうか——どうか翠微をよろしくお願いいたします」


 麗華は頷いた。


 翠微の家を辞す前に、もう一度卓の上の漬物を見た。薄い粥と一切れの漬物。だがその一切れに、翠微の力が宿っている。貧困の中にあっても、食を通じて力は現れる。


「この漬物、少しいただいてもよろしいですか」


「えっ——そんな粗末なものを——」


「粗末ではありません。翠微さんの力を確かめたいのです」


 母が恐縮しながら一切れを紙に包んで渡してくれた。麗華はそれを受け取り、門口を出た。


 振り返ると、母が深々と頭を下げたまま動かなかった。


 帰り道、麗華は黙って歩いた。


 畑の間の細い道を一人で歩きながら、足元の土を見つめた。鳳凰領の豊かな土。霊脈の力が行き渡った、深い色の土だ。


(この子を引き受けるということは——秘伝を開くということだ)


 門外不出の掟を破る。百年以上守られてきた禁忌を犯す。


 だが翠微の母の涙を思い出した。「この子の力を認めてくださる方がいたとは」。誰にも信じてもらえなかった娘の力を、ようやく認めてくれる人間が現れた——その安堵と感謝の涙。


 そして、翠微が育てた漬物を思い出した。たった一切れの漬物に宿る、名もなき少女の力。貧しい食卓に、確かに息づいている地養の息吹。


 麗華の足が止まった。遠くの畑で、翠微が一人で鍬を振っているのが見えた。小さな体で、懸命に土を耕している。日に焼けた腕で鍬を持ち上げ、振り下ろす。額の汗を腕で拭い、また鍬を振る。その繰り返し。


(正しい選択かどうかは、まだ分からない)


(だが——この子を放っておくことだけは、できない)


 風が吹いた。畑の穀物が波のように揺れた。遠くで翠微が顔を上げ、風に目を細めた。


 麗華は歩き出した。鳳家の屋敷へ向かって。その足取りには、昨夜までの迷いとは違うものが宿り始めていた。


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