老太爺の目
翌朝、麗華は老太爺の居室を訪ねた。
鳳家の屋敷の奥まった一画に、老太爺の部屋はある。庭に面した静かな部屋で、窓からは小さな中庭が見える。中庭には老太爺が自ら植えた桃の木が一本、枝を広げていた。秋も深まり、葉は半ば散って枝の隙間から空が透けている。
麗華が入ると、老太爺は窓際の椅子に座り、朝の光を浴びていた。膝には薄い毛布がかけられている。去年まではこの時期に毛布など使わなかった。
「おはよう、麗華」
「おはようございます、祖父様」
鳳老太爺。七十八歳。鳳家先代当主にして、地養術の先代継承者。痩身で背筋の通った老人だが、近頃は以前ほどの張りがない。杖をつく頻度が増え、畑に出る回数も減った。それでも瞳の奥には、鋭い知性の光が健在だった。深い茶色の瞳が麗華を捉え、一瞬で来意を察したようだった。
「翠微のこと、お話したいのですが」
「そうか。あの子のことか」
老太爺は深い茶色の瞳を細めた。麗華が持参した粥の入った椀を卓に置くと、老太爺がゆっくりと匙を手に取る。節くれ立った手だ。土に触れてきた年月を物語る手。かつては地養術を使うたびに淡い緑色に輝いた指先も、今はその光を見ることが少なくなった。
「祖父様の好きな地養穀物の粥です。棗と蓮の実を入れました」
「ありがたい」
老太爺が一口、粥を啜った。棗の甘みと蓮の実のほくほくとした食感が、粟の粥に溶け合っている。老太爺は粥を口に含み、しばらく味わうように目を閉じた。
麗華はその様子を見守りながら、翠微の素質について報告を始めた。畑で光を放っていたこと。霊脈の露頭に手を当てたとき、露頭が淡く光ったこと。そして何より——翠微が霊脈を「聞いた」こと。
「翠微は霊脈の流れを音として知覚しています。わたくしのように『感じる』のではなく『聞く』のです。鳳家の外に——素質者がいました」
老太爺は匙を止めた。
「そうか」
その反応は、麗華が予想していたものとは違った。驚きでも動揺でもない。深く、静かに頷いただけだった。予想よりも、遥かに落ち着いている。まるで——いつかこの日が来ることを、知っていたかのように。
「百年ぶりかもしれんな、外の素質者は」
「百年ぶり?」
麗華の声が上ずった。
「では昔は——鳳家の外にも、素質を持つ者がいたのですか?」
老太爺の瞳が一瞬、曇った。匙を粥の椀に戻し、窓の外の桃の木を見つめた。半分葉を落とした桃の枝が、秋風に微かに揺れている。
「……昔の話だ」
それ以上、口を開かなかった。
「祖父様。秘伝書には外の素質者のことなど一文字も書かれていません。もし昔、鳳家の外にも術者がいたのなら——なぜ記録がないのですか。なぜ秘伝書にはそのことが書かれていないのですか」
「麗華」
穏やかだが、有無を言わさぬ声だった。老太爺がこの声を出すのは、話題を打ち切るときだ。幼い頃から何度も聞いてきた。穏やかな口調のまま、目だけが鋭くなる。あの目を向けられると、麗華は今でも言葉を呑み込んでしまう。
「昔の話は、また今度にしよう。わしも、少し考えたいことがある」
「……はい」
麗華は引き下がった。祖父の声色から、これ以上の追求は無駄だと悟ったのだ。だが胸の中には疑問が渦巻いている。百年ぶりの外の素質者。鳳家の外にも術者がいた時代。それはいつの話だ。なぜ記録が残っていない。なぜ秘伝書から消えている。
粥の残りを勧めたが、老太爺は半分ほどで匙を置いた。
「最近の穀物は……味が薄くなった気がするのう」
「そんなことはありませんよ。今年の稲は良い出来です。わたくしが地養術を施した区画は、例年通りの品質を保っています」
「いや。味が薄いのではない。昔の穀物が、濃かったのかもしれん」
老太爺の言葉に、麗華は首を傾げた。「昔の穀物」とはいつの穀物だろう。祖父が若かった頃の、それとも——もっと昔の。百年前の穀物は、今よりも味が濃かったとでもいうのだろうか。それはつまり、百年前の大地のほうが——霊脈の力が強かったということか。
「ごちそうさま。すまんが、少し休ませてくれ」
「はい。ゆっくりお休みになってください」
麗華は椀と匙を片付け、部屋を出た。
廊下を歩きながら、老太爺の言葉を反芻する。
(百年ぶりの外の素質者。昔の穀物は味が濃かった。祖父様は何を知っている?)
秘伝書には書かれていないことが、祖父の記憶にはある。鳳家の歴史の中で、語られてこなかった何かが。秘伝書から「消された」何かが。
居室に戻ると、窓の外で一人の少女が畑を見ている姿が目に入った。
翠微だった。麗華の部屋の前ではなく、遠くの畑の縁に立って、穀物の穂先を眺めている。朝日を浴びた三つ編みの黒髪が風に揺れ、日に焼けた顔にはいつもの明るい笑みが浮かんでいた。時折しゃがみ込んで土に手を当て、何かを確かめるように首を傾げている。あの子にとっては、それがごく自然な仕草なのだろう。
素朴な農家の少女。名門でもなく、教育も受けていない。それでいて、霊脈の声が聞こえる。
麗華は窓辺から翠微を見つめた。
(この子は——何者なのだろう)
老太爺は部屋で一人、何を考えているのだろう。
麗華が立ち去った後の静かな居室で、老太爺は窓際から動かなかった。
桃の木の向こうに広がる田畑を見つめ、節くれ立った手を膝の上で握った。粥の椀はまだ卓の上にある。半分残った粥が、ゆっくりと冷めていく。
「……あの子が見つかったか」
誰にも聞こえない呟きだった。
「時間がないかもしれんな」
それは自身の寿命のことか。それとも別の何かか。老太爺の深い茶色の瞳に、一瞬だけ——後悔と、恐れと、かすかな希望が交錯した。
中庭の桃の木が、風に揺れた。葉が一枚、ひらりと落ちた。枯れた葉が石畳の上でくるくると回り、やがて止まった。
老太爺はそれを目で追い、目を閉じた。
冷めかけた粥の湯気が、細く細く立ち昇っていた。




