畑の少女
その日、麗華は農地の巡回をしていた。
秋の深まりとともに、冬小麦の準備が始まっている。畑の土を起こし、堆肥を入れ、播種に備える。麗華は毎日のように農地を歩き、区画ごとの土壌の状態を確認していた。指先を土に触れ、霊脈の流れを読む。体で覚えた日課だ。
春蘭が半歩後ろを歩く。帳面を手に、本日の農地の状況を記録している。
「お嬢様。第三区画の堆肥の搬入は明日の午前に完了する見込みです。第四区画の休耕地は緑肥の鋤き込みが順調に——」
「春蘭。少し待って」
麗華が足を止めた。
目の前に、畑が広がっていた。第二区画の端、冬小麦の前作として蕪が植えられた畑だ。蕪の葉が青々と茂り、畝は丁寧に整えられている。
その畑の中に——光があった。
薄い、翡翠色の光。日中の陽光に紛れてほとんど見えないほど淡いが、麗華の目には見えた。地養術を使う者にしか分からない、霊脈の残光だ。畑の一角が、不自然に光っている。地養術を施した覚えはない。
光の中心に、少女が立っていた。
小柄で痩せ型。日に焼けた肌に、二つに分けた三つ編みの黒髪。農家の娘だ。十四歳くらいだろうか。素足のまま畑に立ち、両手を土に当てている。しゃがんだ姿勢で蕪の根元に触れ、何かを確かめるように目を閉じていた。
少女を包む光は、少女自身が発しているのではなかった。畑の土が——少女に応えるように光っていた。少女の手が触れた箇所から、霊脈の残光が波紋のように広がっている。
(何——)
麗華の足が止まった。心臓が跳ねた。
「お嬢様?」
春蘭が麗華の横に並んだ。春蘭の目には光は見えていない。
「春蘭。あの子——」
麗華の声が、微かに震えた。自分でも驚くほど動揺していた。
「あの子が分かりますか。畑の中の」
「はい。農家のお嬢さんですね。この辺りの——沈家の三女だったかと。翠微という名だったと思います」
麗華は畦道を歩き、畑に近づいた。足音を立てないように。光が消えないように。
少女は麗華に気づかず、しゃがんだまま蕪の葉に手を当てていた。真剣な表情で——しかし、どこか楽しそうだ。唇が微かに動いている。何かを呟いているようにも見えた。
「こんにちは」
麗華が声をかけた。
少女がびくりと顔を上げた。明るい茶色の瞳が、好奇心に満ちてきらきらと動く。瞳の奥に——一瞬だけ、緑色の光が宿った。麗華はそれを見逃さなかった。
「あっ——鳳家のお嬢様!」
少女が慌てて立ち上がった。泥だらけの手を袖で拭こうとして、余計に汚す。袖に泥の手形がつく。
「す、すみません! 勝手に畑に入って——いえ、うちの畑なんですけど、勝手にというか——」
「構いません。ここはあなたの家の畑でしょう?」
「は、はい。うちの畑です。父が病気で、あたしが手入れしてるんです」
少女はまだ慌てていた。鳳家の当主に話しかけられることなど、普通の農家の娘には滅多にない。目が泳ぎ、手が所在なさげに揺れている。
「あなた、先ほど何をしていたの?」
「え? あの……いつものことです。畑に入ると、なんだか体が温かくなって。手を当てると……なんていうか、蕪が嬉しそうな気がするんです」
「嬉しそう?」
「変ですよね。でも、あたしが手を当てると蕪がぐんぐん育つ気がして。ずっと昔からこうなんです。小さい頃からこの畑にいると、体が温かくなるんです」
麗華は少女の手を見た。小さいが指が長い。農作業で荒れた手だ。爪の間に土が入り、手のひらに豆の跡がある。
「……手を、見せてもらえますか」
「え? こんな泥だらけの手ですけど」
麗華は少女の手を両手で包んだ。
瞬間——霊脈が共鳴した。
麗華の体の奥にある霊脈への感覚が、少女の手を通じて震えた。微かな波動。だが確かな共鳴。少女の中に、霊脈に呼応する力がある。麗華の掌の中で、翠微の指先が微かに温かく脈打った。
これは——地養の素質だ。
麗華は手を離した。
指先が僅かに震えていた。それを悟られないよう、手を袖の中に隠した。
「あなたの名前は?」
「しん——沈翠微です。沈家の三女です。姉が二人いますけど、二人とも嫁いじゃって、あたしだけ残ってます。あたし、何か悪いことしましたか?」
「いいえ。何も悪いことはしていないわ」
麗華は微笑んだ。だが内心では、心臓が早鳴りしていた。
(霊脈の素質者。鳳家の外に——素質を持つ者が。百年の間、鳳家の中にしか素質者はいないと言われてきた。それなのに——この農家の娘が)
麗華は翠微の畑を見回した。同じ区画の他の畑と比べて、翠微の畑は明らかに作物の育ちが良い。蕪の葉が青々として大きく、根の太さも一回り違う。隣の畑の蕪と比べれば、その差は歴然だった。
「翠微。あなたの畑の作物だけ、ずいぶん元気ね」
「あ、はい! よく言われます。うちの畑だけ野菜がよく育つって。近所の人にも不思議がられるんです」
翠微がしゃがんで蕪を一つ引き抜いた。泥を落とすと、驚くほど白く瑞々しい蕪が現れた。形は整い、表面に傷一つない。根の先まで白く、ひげ根が少ない。
「ほら、この蕪。すごく白いでしょう? 他の畑のは茶色っぽくなるのに、うちのだけこうなんです。母は『翠微は畑の相性がいい』って言ってるんですけど——」
「相性。——ええ、そうかもしれないわね」
麗華はその蕪を受け取った。手に持つと、微かに温かい。霊脈の力が残留している。普通の人には感じ取れないほど僅かな力だが——確かにそこにある。
(この子の素質が、食に宿っている。知らず知らずのうちに、地養の力を作物に注いでいる。無意識に、自分の畑だけを地養している——)
「翠微」
「はい」
「また会えるかしら」
翠微は首を傾げた。三つ編みが揺れた。
「畑にいればいつでも会えますよ? あたし、毎日ここにいますから。朝から日暮れまでずっと」
「そう。——ではまた来るわ」
麗華は微笑んで畦道を戻った。
春蘭が隣に並んだ。
「お嬢様。あの少女に何か?」
「春蘭。沈翠微という子の家について調べてくれる? 家族構成、暮らし向き、近所の評判。父親の病気の具合も」
「承知いたしました。——何かお気づきになりましたか」
麗華は歩きながら、手の中の蕪を見つめた。白い蕪が午後の光に輝いている。
「鳳家の外に——地養術の素質を持つ者がいるかもしれない」
春蘭の目が見開かれた。
「まさか——鳳家の血筋でもないのに?」
「まだ確定ではありません。確認が必要よ。霊脈の露頭に連れていって、直接確かめる」
麗華は蕪を懐にしまった。
鳳家の外に素質者がいる。百年の間、地養術は鳳家の秘伝として閉ざされてきた。鳳家の血筋だけが術を使える——そう信じられてきた。
だが、もしそうでないなら。
麗華の心が大きく揺れた。期待と戸惑いと——小さな恐れが、入り混じっていた。秘伝を開く覚悟が問われることになる。
背後で、翠微が畑に戻る足音が聞こえた。素足が土を踏む軽い音。
その足音が、麗華の耳に残った。




