帝都の密議
帝都。
宰相府の奥座敷は、薄暗かった。
燭台が二つだけ灯された部屋に、三人の男が座っている。窓には厚い帳が下ろされ、外の音も光も遮断されていた。密議の部屋だ。
趙文昌——瑛朝の宰相。白髪を冠の下に束ね、痩せた顔に深い皺を刻んだ老人だ。鋭い目は歳月で曇ることなく、むしろ年々研ぎ澄まされている。その向かいに、蘇家の重臣が二人。
卓の上には質素な膳が置かれていた。雑穀粥と漬物。蒸した豆腐に醤油をかけたもの。それだけだ。かつて宰相府の食卓には翡翠粥や蒸し鶏、焼き魚に季節の果物が並んでいたが、今は見る影もない。官糧の完全停止から二ヶ月。帝都の権力者たちの食卓は、確実に痩せていた。
趙文昌は雑穀粥を一口啜り、不快げに眉を寄せた。粥は水っぽく、穀物の味が薄い。鳳凰領の地養穀物に慣れた舌には、この粥は泥水同然だった。
「鳳凰領の商品が帝都に流入し始めている」
趙文昌が低い声で切り出した。
「鳳凰印、でございますな」
蘇家の重臣——蘇仲達が応じた。五十代の太った男で、蘇家の実務を取り仕切る切れ者だ。丸い顔に柔和な笑みを浮かべているが、目の奥に算盤が見える。
「米酒、米菓子、調味料。すべて鳳凰領の名を冠して、民間の市場に出回っています。帝都の民は喜んで買っておりまして——特に米酒の評判が凄まじい。帝都の酒楼では、鳳凰印の米酒がなければ客が来ないと嘆く店主もいるほどです」
「承知している」
趙文昌の声は低かった。箸が雑穀粥の中で止まった。
「問題は、それだけではない。鳳凰領の名が帝都の市場に浸透すれば、民の心が朝廷から離れる。『朝廷が食わせてくれないが、鳳凰領が食わせてくれる』——そう思われたら終わりだ」
「では、鳳凰領の商業ルートを妨害しますか」
もう一人の蘇家の重臣が口を挟んだ。蘇啓明。三十代の痩せた男で、目が鋭い。蘇仲達よりも若く、危険な野心を隠さない人物だった。
「容易ではない」
趙文昌は雑穀粥の碗を置いた。碗の底に粥の残りが薄く張りついている。
「鳳凰印の商品は市糧——民間流通だ。朝廷が手を出せば、民間の商いを妨害したことになる。民の反発を買う。しかも鳳凰領の商品は品質が高い。帝都の民が望んで買っているものを朝廷が止めれば——」
「暴動が起きかねませんな」
蘇仲達が頷いた。
「しかし放置すれば、鳳凰領の経済力はさらに増す。時間が経つほど不利になるのは朝廷の方です」
「ならば、商業ルートではなく——もっと根本を」
蘇啓明が口を開いた。若い重臣の目に、冷たい光が宿っている。
「根本?」
「鳳凰領の食糧生産そのものです」
部屋の空気が、一瞬だけ冷えた。燭台の炎が揺れた。
「鳳凰領が穀物を生産できるのは、地養術があるからでしょう。地養術の基盤は霊脈。——霊脈に手を加えることができれば」
「蘇殿」
趙文昌の目が光った。老獪な宰相の目だ。皺の奥に鋭い知性が覗く。
「続けなさい」
「蘇家は先代から、霊脈に関する知見を蓄えてまいりました。霊脈の流れを読む古い文献、霊脈図の断片——鳳家ほどではありませんが、独自の蓄積があります。鳳凰領の霊脈の流れを調べることができれば——弱点も見つかるかもしれません」
趙文昌は沈黙した。
雑穀粥が冷めていく。かつての翡翠粥の代わりに、この粗末な食事を取らされている屈辱。鳳麗華——あの女が穀物を止めたからだ。あの女が「帝都の食卓が寂しくなりませんよう」と微笑みながら去っていったからだ。
「……検討に値する」
趙文昌は静かに言った。
「ただし、拙速は禁物だ。鳳凰領の霊脈に手を出すということは、失敗すれば食糧生産そのものを壊す可能性がある。帝都も巻き込まれる」
「承知しております。まずは調査を進めます。鳳凰領の霊脈の構造を把握すること。人員を送り込み、霊脈の流れを読む。それからだ」
「人員? 鳳凰領に?」
「商人に紛れさせます。鳳凰印の取引を口実にすれば、鳳凰領への出入りは容易でしょう」
蘇啓明が薄く笑った。
趙文昌は頷いた。
「よかろう。ただし——陸暁風がいることを忘れるな。あの男は皇帝の将軍だ。目が利く」
「暁風殿のことは承知しております。ですが——密書の内容を見る限り、あの方はもはや鳳家の側に立っているのでは?」
趙文昌の眉がぴくりと動いた。
「……それについては、別途考える」
密議は終わった。三人が立ち上がり、蘇家の重臣たちが部屋を出ていく。
趙文昌は一人残り、冷めた雑穀粥を見つめた。
(鳳麗華。お前は食で国を脅した。ならば——食の根本を断つまでだ)
宰相の目に、暗い決意が宿った。
同じ頃。
帝都の後宮、蘇玉蘭の居室。
玉蘭は蘇家から届いた密書を読んでいた。
美しい女だった。白磁の肌に、紅を引いた唇。目元には泣きぼくろがあり、柳のように細い眉の下に、深い黒の瞳が光っている。かつて麗華を廃妃に追いやった女——瑛朝の新たな寵姫。
密書には、蘇家の鳳凰領に対する計画の概要が書かれていた。
玉蘭は密書を読み終え、紙を燭台の炎にかざした。紙が端から燃え、灰になって卓の上に落ちる。玉蘭は灰を指で潰し、跡形もなく消した。
「……愚か」
玉蘭の声は小さく、冷たかった。
「鳳凰領を攻める? あの土地の食がなくなれば、帝都も死ぬのに。蘇家の連中は、目先の権力しか見えていない」
玉蘭は窓の外を見た。帝都の夜景が広がっている。だがかつてのように煌びやかではない。灯りが減っている。食糧不足は、帝都の活気そのものを奪い始めていた。
玉蘭は目を閉じた。
蘇家の駒として後宮に送り込まれ、麗華を陥れる役目を果たした。だがそれが本当に正しかったのか——今になって、小さな疑問が胸の底に沈んでいる。
後宮の夜は、長い。
同じ夜。
皇帝の書斎。
瑛承乾は机の上の密書を読んでいた。陸暁風からの定期報告だ。
『鳳凰領は灌漑改良を実施。新水路が完成し、東端区画の農業生産が向上する見込み。鳳凰印なるブランドを立ち上げ、加工品の帝都流通を開始。鳳麗華は領地経営に専念し、反逆の兆候は認められず。民は安定しており、食糧生産は順調——』
承乾は密書を読み進めた。
報告の内容は事実の羅列だ。だが——文体が変わっている。
初期の報告は「鳳麗華は要注意」「動向を監視中」という警戒の語調だった。最近の報告は——違う。鳳凰領の灌漑工事の詳細、農業改革の進捗、領民の反応。まるで暁風自身が改革に参加しているかのような、当事者の視点になっている。「水路の設計は合理的であり」という一文に、承乾は暁風が設計に関与したことを読み取った。
承乾は密書を卓に置き、目を閉じた。若い皇帝の顔に、疲れた影が差している。
(暁風。お前は——変わり始めているな)
幼い頃からの知己だ。嘘がつけない男。裏表のない男。その暁風が書く報告の行間に、言葉にされていない何かが滲んでいる。
承乾は窓の外を見た。
帝都の夜空に、星が瞬いていた。鳳凰領で同じ星を見ている暁風のことを、皇帝は考えた。
(朕は——お前を、あの女のもとに送ったことを後悔すべきなのか。それとも——)
答えは出なかった。
帝都の夜は、鳳凰領の夜よりも暗い。食の匂いが薄い夜は、どこか空虚だった。




