炊き出し
灌漑工事の追加作業が続く日々。
水路の本線は完成したが、支線の整備と排水路の仕上げがまだ残っている。暁風の設計図には本線だけでなく、各畑に水を届ける細い支線の配置まで書き込まれていた。
その日も朝から領民たちが第五区画に集まり、支線の整備に取り組んでいた。暁風が指揮を執り、若者が土を運び、年配の農夫が水の流れを確認する。秋の日差しは穏やかだが、体を動かせば汗ばむ陽気だった。工事を始めてからもう十五日が経つ。領民たちの動きは最初の頃よりずっと手慣れていた。
昼が近づいた頃、工事現場に甘い香りが漂ってきた。
「お嬢様だ!」
領民の一人が声を上げた。
麗華が大鍋を抱えた下男二人を従えて、工事現場に現れた。白い麻の腕抜きをつけ、裾を紐で留めた実務的な姿だ。だが袖を捲った腕の白さが、この人が本来は後宮の貴妃であったことを思い出させる。
「昼食をお持ちしました」
麗華は竈代わりの石組みの前に立ち、袖を捲った。
「お嬢様が自分で?」
陳伯が目を丸くした。
「鳳家のお嬢様が炊き出しですか。下男に任せれば——」
「食を知らぬ者に食の国は作れません」
麗華は微笑み、大鍋に火をかけた。
既に屋敷で下拵えは済ませてある。鶏の骨を三刻かけて煮出した清湯。澄んだ琥珀色の出汁には、骨の旨味が余すことなく溶け出している。
大鍋が沸き立つと、麗華は冬瓜の半月切りを入れた。冬瓜は鳳凰領の畑で今朝採れたばかりのもので、切り口が瑞々しく光っている。次に豆腐の角切り。鳳凰領の大豆で作った堅めの豆腐だ。干し椎茸は前の晩から水で戻してあり、薄く切って鍋に滑らせる。
塩と僅かな醤油で調味し、仕上げに刻んだ葱を散らす。
大鍋から立ち昇る湯気が、工事現場を包んだ。鶏の出汁と干し椎茸の旨味が混ざり合い、冬瓜の清涼な香りが鼻をくすぐる。風が湯気を運び、水路の向こうで作業していた者たちまでもが顔を上げた。
「さあ、どうぞ。温かいうちに」
麗華が杓子で一人一人の碗に汁を注いだ。碗の中で冬瓜が半透明に透け、豆腐が出汁に浮かび、干し椎茸の茶色が深みを添える。葱の緑が彩りを整えていた。
領民たちが土まみれの手を洗い、碗を受け取る。日に焼けた顔に笑みが浮かぶ。
「旨そうだ……」
「お嬢様の手料理か。贅沢だなあ」
暁風は列の最後に並んだ。
「将軍殿も、どうぞ」
麗華が暁風の碗に清湯を注いだ。湯気の向こうに、麗華の微笑みが見える。湯気に温められた頬が、ほんのり赤い。
暁風は碗を受け取り、一口啜った。
旨い。
鶏骨の出汁は深く澄み、透明な旨味が舌に染みる。冬瓜は柔らかく、噛むと甘みがじわりと広がる。冬瓜の清涼感が出汁の濃さを和らげ、飲み口は驚くほど軽い。干し椎茸の旨味が全体をまとめ、豆腐が出汁を吸って口の中でほどける。素朴な汁物だが、一口飲めば体の芯から温まる。
「旨い」
暁風が言った。飾りのない、率直な一言。語彙が消えている。「旨い」以外の言葉が見つからないのだ。
「そう言っていただけると、作った甲斐があります」
麗華が——珍しく、嬉しそうな顔をした。
後宮の微笑みでも、知略家の冷笑でもない。純粋に、自分の料理を褒められて嬉しい女の顔だ。目元がわずかに細まり、唇の端が自然に上がっている。いつもの計算された微笑みとは、質が違う。
暁風は碗に口をつけたまま、その表情から目を離せなかった。
工事現場の木陰に、二人は並んで座った。
同じ碗の清湯を啜り、同じ握り飯を食べる。麗華が朝のうちに握っておいた飯だ。鳳凰領の米と粟を混ぜ、塩昆布を芯にした素朴な握り飯。外側は塩が効いて、中の昆布の旨味が米にじんわりと移っている。
暁風は握り飯を一つ平らげ、二つ目に手を伸ばした。
「あんた——いや」
暁風が言いかけて止まった。
「何ですか?」
「この汁は……いつも、こういう味なのか」
「こういう味、とは?」
「飲むと、腹だけじゃなく……何というか」
暁風は言葉を探した。天井を見上げるように空を見た。雲が流れている。見つからなかった。
「温まる」
それだけ言って、碗に顔を隠した。
麗華は暁風の横顔を見つめた。
(この人は——味の感想を言うとき、一番正直になるのね。政治も忠義も関係ない、素のままの言葉が出てくる)
木陰に穏やかな時間が流れた。領民たちも周りで清湯を啜り、笑い声が上がっている。大鍋の底は空になりかけていた。清湯の香りが風に漂い、工事現場全体が昼食の幸福感に包まれている。
「お嬢様! おかわりないですか!」
「ありますよ。まだ鍋に残っています」
麗華が立ち上がり、領民におかわりを注ぐ。自然な動きだった。鳳家の令嬢が杓子を持って炊き出しをする姿は、最初こそ驚かれたが、今はもう日常の一部になりつつあった。
「お嬢様。うちの嫁に、この出汁の取り方を教えてくれませんか」
「ええ、喜んで。鶏の骨は水から入れて弱火で三刻。途中で浮いてくる灰汁を丁寧に掬うのが大事です」
麗華が領民に料理の手ほどきをしている。その姿に、後宮の貴妃の面影はない。鳳凰領の人間がそこにいた。
暁風は清湯の最後の一口を飲み干し、碗を下ろした。
(この人の作る飯は——)
何かを思いかけて、止めた。
言葉にしてはいけない気がした。言葉にしたら、何かが変わってしまう。「旨い」だけでいい。それ以上は——まだ、いい。
麗華が工事現場に戻っていく後ろ姿を、暁風は黙って見ていた。藍色の袍の裾が風に揺れ、腕抜きの白が陽光に光る。黒髪が風に流れ、一瞬だけ振り返った横顔が見えた。
大鍋の清湯の匂いが、まだ風に残っていた。
午後の作業が再開された。暁風は鍬を握り直した。体は動く。腹が温まっているからだ。
清湯の味が、まだ舌に残っていた。それは帝都のどんな宮廷料理にもなかった味だった。
鶏骨と冬瓜と干し椎茸。たったそれだけの材料で、これほどの味を出す。素材を見極め、火加減を読み、塩の量を体で知っている人間にしか作れない味だ。暁風は軍の糧食しか知らなかった。食べることは補給だった。だがここに来てから——食べることの意味が変わりつつあった。
夕暮れの風が吹き、工事現場に残った清湯の匂いを運んでいった。




