鳳凰領ブランド
鳳凰領の南端に、醸造所がある。
もとは鳳家の蔵を改築したもので、高い天井の中に甕が何十と並んでいた。米酒、酢、味噌、醤油——鳳凰領の穀物を原料とした発酵食品がここで作られている。甕の表面には醸造の年月を示す朱書きがあり、古いものは十年以上前の仕込みだ。
蔵の中は涼しく、発酵の香りが充満していた。甘い米酒の匂いと、熟成した味噌の深い香り。壁の石に染みついた数十年分の発酵の記憶が、この場所を特別な空間にしていた。
麗華は醸造所の奥まで歩き、甕の一つの蓋を開けた。
甘く、かすかに酸みのある香りが立ち昇った。米酒の仕込みだ。鳳凰領の上質な米を蒸し、麹を加え、水で仕込む。三ヶ月の醸造を経て、琥珀色の米酒が出来上がる。この甕はちょうど二ヶ月目で、まだ発酵の途中だ。
「職人長。今季の仕込みの具合は」
「はい、お嬢様。今年の米は地養の力が強く、糖化が順調です。出来は上々かと」
白髪の職人長が頭を下げた。鳳凰領の醸造を三十年支えてきた老練な男だ。手の甲には麹の白い粉がついていた。
「結構です。ですが——」
麗華は甕の中身を杓子で掬い、小さな器に注いだ。まだ濁りのある若い酒だ。
一口、含む。
舌の上で転がし、喉に流す前に香りを確かめる。後宮の宴で磨いた利き酒の技術が、ここで役に立つ。
甘みは十分だ。糖化は進んでいる。だが、香りに深みがない。鳳凰領の米が持つ独特の風味——地養の力が穀物に宿す、他にはない花のような香り——が、醸造の過程で薄まっている。温度が高すぎるのだ。
「香りが逃げています。仕込み水の温度を二度下げて、醸造期間を半月延ばしましょう。低温でゆっくり発酵させれば、地養の風味が酒に残ります」
「半月ですか。それでは出荷が——」
「出荷が遅れるのは承知しています。ですが、中途半端なものは出しません。鳳凰領の名を冠する以上、品質で妥協すれば名前の価値が落ちます」
麗華の声は穏やかだったが、妥協のない響きがあった。
「穀物を売るだけでは、領地は豊かにならない」
麗華は春蘭に向き直った。醸造所の薄暗い光の中で、二人の女が向かい合う。
「鳳凰領の穀物は確かに上質です。ですが、穀物のまま売れば一石いくらの相場に縛られる。朝廷の政策や天候で価格が左右される。——それでは主導権を握れません」
「加工品ですね」
春蘭が帳面を開いた。
「米酒、米菓子、調味料。穀物を加工すれば付加価値が生まれ、利幅が大きくなる。しかも鳳凰領の穀物でなければ出せない味がある。他の領地では真似できない」
「その通り。地養の穀物でしか出せない風味。これは鳳凰領の最大の武器です。穀物そのものを売るのではなく、穀物の力を凝縮した商品を売る」
麗華は醸造所を出て、隣の菓子工房に入った。ここでは米粉を使った菓子が試作されている。木の卓の上に、蒸し器から出したばかりの試作品が並んでいた。
職人が差し出した試作品を一つ手に取った。桂花糕——桂花の花びらを練り込んだ蒸し菓子だ。半透明の白い生地に金色の花びらが散り、見た目は美しい。口に入れると、米粉のもちもちとした食感に、桂花の甘い香りが広がる。
「悪くない。ですが、もう少し米粉の粒を細かく。口溶けが鳳凰領の品質に達していません。噛まなくても舌の上で溶けるくらいが理想です」
「はい、お嬢様。粉の挽き方を変えてみます」
職人が頭を下げた。
午後。麗華は鳳凰領の商会事務所を訪ねた。
市糧ネットワークを担う鳳凰商会の代表、林玄宗が迎えた。五十代の恰幅のいい商人で、鳳家とは三代の付き合いがある。丸い顔にたくわえた髭を撫でながら、麗華を応接間に通した。
「林殿。お呼び立てして申し訳ありません」
「いやいや、鳳家のお嬢様のお呼びとあらば、いつでも参りますよ。——して、今日のご用件は」
「単刀直入に申し上げます」
麗華は卓の上に帳面を広げた。数字と図表が並んでいる。流通経路、想定販売量、利益率の計算。
「鳳凰領の名を冠したブランドを作ります。鳳凰印と名付けます」
林玄宗の目が光った。商人の嗅覚が反応している。
「ブランド、ですか」
「ええ。鳳凰領の穀物で作った米酒、米菓子、調味料を、すべて鳳凰印の名で市場に出します。品質は鳳家が保証する。流通は林殿の商会にお任せしたい」
「なるほど……市糧ネットワークをそのまま販路に使えますな。新しい経路を開拓する必要がない」
「その通りです。ただし、条件があります」
麗華は指を一本立てた。
「鳳凰印の商品には、必ず鳳凰領の名を冠してください。包装に鳳凰領の印を入れ、売り場でも鳳凰領の名を出す。買い手が『これは鳳凰領の品だ』と必ず分かるように」
林玄宗は顎を撫でた。
「なるほど。ただの米酒ではなく、《鳳凰印の米酒》として売る。名前に力がありますな。帝都の民が鳳凰領の名を覚えれば——」
「朝廷の穀物ではなく、鳳家の穀物を指名買いするようになります」
麗華は微笑んだ。
経済戦略であると同時に、政治的なメッセージだ。鳳凰領の名が帝都の市場に浸透すれば、朝廷の「鳳凰領の力を削ぐ」試みはさらに困難になる。民が鳳凰領ブランドを支持する限り、朝廷は手を出せない。
「承知いたしました。——しかしお嬢様」
林玄宗が身を乗り出した。
「価格はいかがなさいますか。安くすれば数は出ますが利幅が薄い。高くすれば品質に自信がないと思われる」
「品質で勝負します。価格は標準の二割増し。ただし、味で納得させる」
麗華は懐から小瓶を取り出した。試作品の米酒だ。先ほど醸造所で温度調整を指示した、仕込み途中のもの。
「これを味見してください。まだ仕上がっていませんが」
林玄宗が杯に注いで、一口。
目が見開かれた。
「これは——旨い。この甘みは……普通の米酒にはない風味ですな」
「地養の米にしか出せない味です。完成品はもっと旨くなります」
「……お嬢様。この酒は売れます。間違いなく売れます」
「でしょう?」
麗華は試作品を手に取り、自分も一口含んだ。
まだ足りない。もっと旨くなる。鳳凰領の穀物にしか出せない味を、極限まで引き出す。それが鳳凰印の品質だ。
「鳳凰印の第一弾は、来月の出荷を目標とします。林殿、流通の準備をお願いします」
「お任せください」
商会事務所を出た麗華は、夕暮れの通りを歩きながら空を見上げた。茜色の空に、一番星が光り始めている。
(穀物を武器にする。でも、武器は一つでは足りない。加工品で経済圏を広げ、鳳凰領の名を帝都に浸透させる。朝廷が動く前に、民の心を掴む)
食の国を作る。それが、鳳麗華の新しい戦いだった。




