荒地の話
水路工事が一段落した日、暁風は排水路の点検をしていた。
第五区画の外縁部。鳳凰領と荒地の境界に近い場所だ。新しい水路から溢れた水が周囲の畑を浸さないよう、排水路の石組みを確認する作業だった。
排水路の石組みを一つ一つ手で確かめている時、背後から声がかかった。
「暁風どの」
振り返ると、老人が立っていた。日に焼けた顔に深い皺。腰は曲がっているが、目に力がある。六十は超えている。工事に参加していた古参の農夫だった。名を趙伯方と言い、皆からは趙爺と呼ばれている。
「趙爺か。どうした」
「少し、話を聞いてもらえるかの。年寄りの長話で申し訳ないが」
老人は暁風の隣にしゃがみ込んだ。排水路の向こうに広がる荒地を見つめながら、ぽつりと口を開いた。
「わしの故郷は、ここから東に五日ほど行った場所でな。翠雲村と言った」
「言った、と」
「もうない。荒地に呑まれたんじゃ」
趙爺の声は淡々としていた。長い年月をかけて痛みを飲み込んだ人間特有の、穏やかな語り口だった。
「わしが小さかった頃は、青い田んぼが広がっていたよ。稲が風に揺れて、秋になれば黄金色に染まって。蛙が鳴いて、水路には小魚がいて。——美しい村だった」
暁風は黙って聞いていた。
「じゃが、年々土が痩せていった。最初は気づかなんだ。作物の味が少し落ちたかな、という程度で。じゃが十年もすると、明らかに収穫が減り始めた。井戸の水位が下がり、田んぼの土が白っぽくなっていく」
趙爺は荒地に目を向けた。風が砂を巻き上げ、灰色の粒子が陽光に光る。
「わしが二十の頃にはもう駄目だった。井戸が涸れ、田んぼは乾ききって、種を撒いても芽が出ない。村の者は一人減り、二人減り、やがて散り散りになった。わしも女房を連れて鳳凰領に流れてきた」
「それが——どのくらい前だ」
「四十年前じゃな。わしが鳳凰領に来て四十年。それからも荒地は広がり続けた。翠雲村があった場所は、今はただの灰色の平地じゃよ」
趙爺は懐から麻の袋を取り出し、中から握り飯を出した。朝のうちに握っておいたものだろう。鳳凰領の粟と米を混ぜた握り飯だ。
「荒地の向こうでは、こんな旨い飯は夢にも出ない」
趙爺は握り飯を頬張り、ゆっくりと噛んだ。穀物の甘みを確かめるように、丁寧に咀嚼する。
「鳳凰領に来た時、最初に食べた飯の味は忘れられんよ。白い米が口の中で甘くて、涙が出た。翠雲村にいた頃は、こんな味を知らなかった」
暁風は老人の横顔を見つめた。
「趙爺。荒地はまだ広がっているのか」
「ああ。じわじわとな。毎年、指一本分ずつ——鳳凰領の端の畑を見てみなさい。十年前はもう少し広かった。——荒地が少しずつ、こちらに迫ってきている」
暁風は立ち上がり、荒地と鳳凰領の境界を見下ろした。
確かに、境界線は明確だった。緑の畑と灰色の荒地の間に、緩衝地帯のような痩せた土地がある。草は生えているが背が低く、色も薄い。健康な緑ではなく、黄色がかった疲れた緑だ。
「あの痩せた帯が、年々広がっているのじゃ。わしの記憶じゃ、十年前はあの辺り——」
趙爺が指さした先は、今は完全に荒地の中だった。
「——あの辺りまで畑だった」
暁風は黙った。
趙爺は立ち上がり、腰を伸ばした。骨が鳴る音がした。
「鳳凰領だけが緑なのは、お嬢様の地養術のおかげじゃ。じゃが——この先もずっとそうかどうかは、わしには分からん」
「……ああ」
「年寄りの杞憂だと思ってくれていい。じゃが、言っておきたかったんじゃ。この領地の外は——死んでおる。それだけは忘れないでほしい」
趙爺は握り飯の最後の一口を食べ、手を払い、ゆっくりと畦道を帰っていった。
午後。
暁風は麗華を訪ね、高台に連れ出した。
鳳凰領の東端、水路工事を見下ろせる丘の上。ここからは鳳凰領の田畑と、その向こうに広がる荒地の両方が見渡せた。緑と灰色の境界線が、一本の線のように横たわっている。
「趙爺から聞いた。荒地が年々広がっているそうだ」
麗華の表情が微かに翳った。
「……ええ。知っています」
「知っていたのか」
「祖父から聞いています。霊脈の流れが弱まっている場所から、少しずつ土地が死んでいく。鳳凰領は地養術で守られていますが、外の土地には——守る者がいません」
麗華は荒地を見下ろした。
夕日が荒地を照らしていた。灰色の大地が、赤い光に染まって不気味に輝いている。ひび割れの影が長く伸び、まるで傷口のように見えた。
「この領地だけが例外——それはつまり」
麗華の声が、独白のように低くなった。
「例外がなくなれば、すべてが——」
言葉を飲み込んだ。
暁風は麗華の横に立ち、同じ方向を見つめた。
緑の鳳凰領と、灰色の荒地。その境界線が、この国の命の境界線だ。鳳凰領の食糧がなくなれば、瑛朝の民は飢える。荒地が鳳凰領を呑めば——国そのものが死ぬ。
「この領地を守ることは」
暁風の声は静かだった。
「この国を守ることだ」
麗華は暁風を見上げた。
暁風は荒地を見つめたまま、腕を組んでいた。その横顔に、監視役の義務感はなかった。ここにいる理由を見つけた男の顔だった。夕日に照らされた顔の輪郭が鋭く、目は遠くを見据えている。
麗華は口を開きかけ——閉じた。
(この人は、いつからこんな目をするようになったのかしら。皇帝の犬だと思っていた人が——いつの間にか、この土地のことを考えている)
風が吹いた。麗華の髪と暁風の袍の裾が同じ方向に揺れた。
「将軍殿」
「何だ」
「ありがとうございます」
暁風が眉を上げた。
「何がだ」
「趙爺の話を、聞いてくださったこと。そして——わたくしに伝えてくださったこと。監視の報告書に書く必要のないことを」
麗華は微笑んだ。だがその微笑みの奥に、これまでにない深い憂いがあった。
鳳凰領だけが豊かであり続けることは、本当に可能なのか。荒地が迫り、霊脈が弱まり、いつかこの緑も消えるのではないか。
その問いが、麗華の胸に芽生えていた。まだ答えは見えない。だが——問いを持つことが、最初の一歩だった。
二人は高台を降り、夕暮れの鳳凰領に戻った。
炊飯の煙が立ち昇り、夕餉の匂いが風に乗ってくる。鳳凰領は今日も豊かだ。今日も食の匂いに満ちている。
だが、その豊かさの外側に——灰色の大地が、静かに迫っていた。




