水路の設計図
翌朝。
暁風が執務室に現れた時、手に丸めた紙を持っていた。
「設計図ができた」
麗華が帳簿から顔を上げた。暁風が紙を卓に広げると、精密な灌漑水路の設計図が現れた。
水源からの本流、分岐点、堰の位置、支線の経路、末端の排水路。すべてが正確な縮尺で描かれている。等高線まで入っていた。線は定規で引いたかのように真っ直ぐで、文字は小さいが一画一画が丁寧だ。軍の陣地設営図と同じ精度で描かれた、工学の設計図だった。
「……将軍殿」
「何だ」
「これを一晩で?」
「二刻で描いた。陣地設営図の応用だ。地形は昨日歩いて頭に入っている」
麗華は設計図に目を落とした。指で線を辿り、計算を頭の中で走らせる。水量の配分。流速。堰による水位調整。支線の勾配。排水路の位置。すべてが理にかなっていた。軍の兵站技術を農地に応用するという発想は、暁風ならではだ。
(水量の配分が的確。堰の位置も合理的。第五区画までの水の到達時間を計算に入れている。これなら旱魃の年でも末端の畑に水が行き渡る。——戦場の兵站を設計してきた人は、こういうところが違う)
「素晴らしいですね」
麗華は率直に言った。世辞ではない。本心からの評価だ。
「修正は不要です。このまま工事に入れます」
暁風の肩が、わずかに動いた。褒められ慣れていないのだ。禁軍では任務を完遂して当然。褒められることなどなかった。
「戦場の兵站を考えれば当然だ。水の確保は命に関わる。飯が炊けなければ兵は動けん」
「ええ。食もまた命に関わります。将軍殿と話が合いますわ」
暁風は鹹菜を噛むような顔をした。褒められているのか、からかわれているのか判別がつかない。麗華の微笑みは、そのどちらとも取れる形をしていた。
「では、工事の日程を組みましょう。春蘭」
「すでに人員の手配を始めております。陳伯どのに声をかけ、若者二十名を集められる見込みです」
春蘭が控えの席から声を上げた。相変わらず、一手先を読んでいる。設計図が完成する前から人手の準備を進めていたのだ。
「さすがですね」
「お嬢様のお考えは、大体読めますので」
春蘭が微笑んだ。暁風は黙って水を飲んだ。この屋敷の女たちは全員、一手先を読んでいる。
午後、麗華と暁風は農地に出た。
設計図を手に、実際の地形を歩く。暁風が図面と地面を交互に見ながら、要所を確認していく。水路の予定線に沿って、二人が並んで歩く。
「ここに堰を設ける。この岩を利用すれば基礎工事が省ける」
暁風が天然の岩を指さした。水路の分岐点に、ちょうど良い大きさの岩がある。人が運んだのではなく、地面から突き出た自然石だ。
「なるほど。天然の石組みを堰の一部に使うのですね」
「軍の陣地では地形を活かすのが鉄則だ。余計な工事は時間と人手の無駄になる。天が用意したものは、使い倒す」
「天が用意したもの……」
麗華は岩に手を当てた。冷たい石の感触の奥に、微かな霊脈の脈動を感じる。この岩の下を霊脈が通っている。地養術と水路の設計が、自然にこの場所で交差している。
「良い場所です。この岩の下を霊脈が通っています。堰と地養の両方に良い位置です」
「霊脈のことは俺には分からんが——地形的には最適だ」
二人は畦道を並んで歩いた。秋の陽光が穏やかに降り注ぎ、稲穂が風に揺れている。畑の土は水路予定線に沿って少し掘り返されており、下の粘土層が見えていた。
暁風が水路の予定線を確認するためにしゃがむと、麗華も隣にしゃがんだ。二人の肩が近い。暁風は微かに体を引いたが、麗華は気にした様子もなく水路を覗き込んだ。
「この辺りの土質は粘土が多いですね。水路の壁が崩れにくい」
「ああ。粘土層なら石組みなしでも耐える。工期が短縮できる」
専門の異なる二人が、それぞれの知識を持ち寄って一つの設計を検証している。暁風は兵站と土木、麗華は農学と地養術。歯車が噛み合うように議論が進む。互いの言葉が足りない部分を、もう一方が自然に補っている。
畑の中ほどで、麗華が足を止めた。
「少し休みましょう」
麗華は袖の中から布包みを取り出した。中には蒸し芋が四つ、まだほんのり温かい。
「携行食です。朝のうちに蒸しておきました。鳳凰領の紅芋は蒸すと甘みが増すのです」
暁風が蒸し芋を一つ受け取った。皮を剥くと、黄金色の果肉が現れた。日光を受けて艶々と光る。口に入れると、ほくほくとした食感と自然な甘みが広がる。砂糖などなくても、芋そのものが甘い。
「こういうものが旨い」
暁風は素朴に言った。宮廷の山海珍味よりも、畑で食べる蒸し芋の方が——
「将軍殿の舌は庶民的ですね」
「悪いか」
「いいえ。——わたくしも、こういう味が好きですから」
麗華が蒸し芋を頬張った。風が髪を揺らし、芋の湯気が二人の間に漂う。領民たちが遠くで畑仕事をしている。穏やかな午後だった。
「ところで。あんた——いや、鳳麗華どの」
「何ですか」
「この設計図は、帰還の言い訳で作ったんじゃない」
麗華の手が止まった。暁風の目がまっすぐに前を向いていた。
「この領地の水路が脆弱なのは事実だ。直す必要がある。——だから描いた。それだけだ」
「ええ」
麗華は暁風の横顔を見つめた。嘘がつけない男。自分の行動に言い訳を用意できない男。だからこそ——信用できる。
「分かっていますよ、将軍殿」
暁風は蒸し芋を口に押し込んだ。何か言いたげだったが、芋が口をふさいでいた。
麗華は微笑んだ。
日が傾き始めた頃、二人は屋敷に戻った。
その夜、麗華が書斎で作業をしていると、春蘭が入ってきた。
「お嬢様。帝都から新しい密報が入りました」
「何かしら」
「趙文昌が蘇家の重臣と密会しているそうです。議題は——鳳凰領の経済力を削ぐ方法」
麗華の手が止まった。筆先の墨が紙に一点、落ちた。
「そう。——動き始めたのね」
「はい。具体的な内容はまだ不明ですが、規模が大きいと」
麗華は筆を置き、窓の外を見た。鳳凰領の夜は静かだ。遠くに灯りが点々と揺れ、虫の声が聞こえる。
「趙文昌。あの人は食糧の重みを分かっていないのよね」
(精々、わたくしの領地を潰す方法を考えていなさい。この土地の力を削げるものなら、やってみなさい)
麗華は筆を取り直した。五年計画の図面に、暁風の水路の線を書き加える。二人の知恵が紙の上で一つになる。
嵐が来るならば、その前に足場を固める。それが、鳳麗華のやり方だった。




