鍬と汗
鍬が土を噛む音が、朝靄の中に響いていた。
灌漑工事が始まった。
鳳凰領の東端、第五区画の入口。暁風の設計図通りに、新しい水路を掘る工事だ。領民の若者二十人が鍬と鋤を手に集まり、暁風が先頭に立っていた。鉄紺の軍袍を脱ぎ、灰白の麻袍一枚になっている。袖を肘まで捲り上げると、鍛え上げられた前腕の筋が浮き出た。
「ここから北に向かって掘る。深さは二尺、幅は三尺。石にぶつかったら声を上げろ。無理に掘らなくていい。俺が見る」
暁風は鍬を握った。柄の木が手に馴染む。軍の鍬より少し軽いが、刃先が鋭く研がれていた。
振り下ろす。
土が裂けた。一振りで鍬の刃が半尺は沈む。黒い土が左右に跳ね飛び、掘られた跡に水気を含んだ粘土層が顔を出す。暁風は黙々と掘り進め、その速度に若者たちが目を丸くした。
「す、すげえ……」
「さすが将軍殿だ。腕の太さが違う」
「体力が化け物だぞ。一振りで俺たちの三倍は掘ってる」
暁風は聞こえない振りをして鍬を振るい続けた。汗が額から顎へ伝い、襟元を濡らす。だが動きは止まらない。軍の陣地設営で培った体力は、農地の土木工事にそのまま活きた。一振りごとに、体が仕事を思い出していく。土を掘るのは、戦場の壕を掘るのと同じだ。
「おい、休んでいないで動け。見てるだけじゃ水路は掘れん」
暁風が振り返ると、若者たちが慌てて鍬を握り直した。
「は、はい!」
作業が進む。暁風が先頭を掘り、若者が土を籠に入れて運び、年配の農夫が壁を整える。暁風の指示は簡潔で明確だった。
「そっちの土は硬い。鍬を斜めに入れろ。真上から打つと刃が弾かれる」
「ここは粘土層だ。水を撒けば掘りやすくなる。水を持ってこい」
「そこの根が邪魔だ。先に鎌で切れ。根を残すと後で水路を塞ぐ」
指示の一つ一つに、実戦の経験が裏打ちされている。軍の陣地設営では、一刻の遅れが命に関わる。効率を追求する暁風の指揮は、農民たちにとって新鮮だった。
「岩だ。——退がれ」
岩盤にぶつかった。人の頭ほどの大きさの岩が水路の予定線上に座っている。若者が二人がかりで引こうとしたが、びくともしない。地中に深く根を張った岩だ。
「……待て。俺がやる」
暁風が鍬を置き、岩に手をかけた。膝を曲げ、腰を深く落とし、脚に力を入れる。禁軍仕込みの体の使い方だ。腕の力ではなく、全身の力を脚から腰に通して腕に伝える。
岩が動いた。
土から剥がれるようにして、岩が地面から浮いた。暁風がそのまま横に一歩動き、水路の外に放り出す。地面が揺れた。
領民たちが拍手した。
「やっぱり化け物だ!」
「暁風どの、すごい!」
「ありがとうございます!」
暁風は汗を拭いた。土と汗で顔が縞模様になっている。
「岩ごときで止まるな。迂回路も考えてある。だが、まっすぐ掘れるなら掘った方が早い」
午前の作業を終え、休憩になった。
工事現場の脇に張った日除けの下で、領民たちが腰を下ろした。暁風も地面に座り、手ぬぐいで顔を拭いた。土まみれの手ぬぐいが茶色に変わる。
「暁風どの」
年配の農夫が声をかけた。六十を超えた男で、陳伯の弟分にあたる人物だ。
「何だ」
「最初は正直、怖い人だと思ってました。皇帝陛下の手先が来た、お嬢様を監視しに来た、って。村の衆もみんなそう言ってたんです」
農夫は日に焼けた顔を手ぬぐいで拭いた。
「でも、こうして一緒に汗をかいてもらうと——こんなこと言ったら失礼かもしれませんが」
農夫は歯を見せて笑った。
「頼もしい助っ人ですな。うちの若いもんより働く」
暁風は何も言わなかった。ただ、わずかに頷いた。それが暁風なりの「ありがとう」だった。
若者の一人が水桶を運んできた。
「暁風どの、これどうぞ。緑豆湯です。うちの母ちゃんが朝から作ってくれました。工事の差し入れです」
緑豆湯。緑豆を水に浸して柔らかくし、砂糖を加えて煮た甘味だ。冷やして飲むと、暑い日の作業には最高の飲み物になる。鳳凰領の緑豆は粒が大きく、煮ると豆の中から澱粉がとろりと溶け出して、飲み口がまろやかになる。
暁風は碗を受け取り、一口飲んだ。
冷たい。甘い。緑豆のほのかな風味が口に広がり、喉の渇きが一息に癒える。砂糖は控えめだが、緑豆の自然な甘みが十分に引き出されている。冷たい液体が喉を下り、火照った体の芯に染み渡っていく。
「……旨い」
「でしょう? 鳳凰領の緑豆は粒が大きいんですよ。他の土地のとは全然違うんです」
暁風はもう一口飲んだ。冷たい緑豆湯が、汗ばんだ体を冷やしていく。
周りの領民たちも同じ緑豆湯を飲み、笑い声を上げている。碗を持つ手は皆泥だらけだ。だがその汚れが、一緒に働いた証のように見えた。
暁風はその輪の中にいた。
皇帝の将軍ではなく。監視役でもなく。ただ、一緒に汗をかいた仲間として。
午後の作業が再開された。
暁風は岩盤にぶつかった区間の処理を指揮した。地形を読み、迂回ではなく岩を割って直進する方針を選ぶ。
「石割りの要領は——こうだ」
暁風が石鑿を岩の割れ目に当て、槌で叩く。三度叩くと、岩に亀裂が入った。鑿の位置をずらし、もう二度。岩が真っ二つに割れ、断面から水の匂いが立った。
領民から歓声が上がった。
「暁風どの! やり方を教えてください!」
「見ていろ。割れ目を探すのが先だ。岩には必ず弱い筋がある。闇雲に叩いても割れない。筋を読んで、そこに力を集中する」
暁風は若者に石割りの技術を教えた。一人一人の手を取り、鑿の角度を直し、力の入れ方を見せる。不器用に言葉で説明するよりも、手で教える方が早い。
夕暮れ時。
一日目の工事が終わった。水路の掘削は約三十歩分が完了した。予定の三分の一。十日の工期は守れそうだ。
暁風は工具を洗い、汗まみれの手ぬぐいを絞った。
領民たちが口々に「お疲れ様」「明日もよろしく」と声をかけて帰っていく。暁風は一人一人に軽く頷き返した。
「暁風どの!」
若者が振り返って叫んだ。
「明日も一番乗りで来ますから!」
「……ああ。遅れるなよ」
暁風は工事現場の端に立ち、掘りかけの水路を見下ろした。
土の匂い。汗の記憶。緑豆湯の甘さ。自分の手で掘った水路が、夕日に照らされて影を落としている。
遠くから、夕暮れの農地を歩く麗華の姿が見えた。藍色の袍が夕日に染まっている。畑の端で立ち止まり、この方向を見ているような気がした。
暁風は、汗を拭いながら笑った。
笑っていることに自分でも気づかなかった。緑豆湯と汗と土の匂いが混ざった、充実感の笑みだった。
だが——麗華は、見ていた。
遠くからその笑顔を見つめた麗華の表情が、ほんの一瞬だけ——柔らかくなった。
春蘭だけが、それに気づいていた。




