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廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


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いつ帰っても

 庭の石畳に、木漏れ日が落ちていた。


 鳳家屋敷の裏庭。桂花けいかの木が三本植えられた小さな庭園だ。石の腰掛けが二つ、泉水せんすいの脇に置かれている。桂花の花はまだ蕾だが、枝の間から淡い香りの気配がする。あと半月もすれば、この庭は金色の花と甘い香りに包まれるだろう。


 麗華はその一つに座り、暁風は向かいに立っていた。腕を組み、庭の木を見ている——ふりをしている。実際には麗華の言葉を待っていた。


「将軍殿」


 麗華の声は穏やかだった。微笑みを浮かべ、手元の茶碗を見つめている。


「監視のお仕事も、そろそろ一区切りではありませんか?」


 暁風が眉をわずかに動かした。


「先日、朝廷の使節が帰りました。復位も断り、条件も提示した。状況は明らかです。将軍殿が帝都にお持ち帰りになる情報として、十分すぎるほどでしょう。——いつ帰都なさっても、報告に不足はないかと」


「……まだ報告が済んでいない」


「報告ですか?」


 麗華が首を傾げた。切れ長の琥珀色の瞳が、暁風をまっすぐに見つめる。


「何の報告でしょう。わたくしが領民と粟飯を食べていることですか。水路の設計を将軍殿に丸投げしていることですか。子供に肩車をしてあげていることですか。それとも——」


「まだだ」


 暁風の声は低く、短かった。自分でも分かっていた。言い訳が苦しいことは。


「まだ……把握できていないことがある。灌漑の工事もこれからだ。領地の全容を報告するには——」


 言葉が途切れた。


 麗華は暁風の顔を見つめた。この男の表情は分かりやすい。困った時、唇がわずかに引き結ばれる。嘘をつこうとする時、視線が斜め下にずれる。今がまさにそうだ。


(嘘をつくのが本当に下手な方ね)


 麗華は微かに笑った。責めるつもりはなかった。


「そうですか。ではごゆっくりどうぞ。——お帰りの前に」


 麗華は袖の中から小さな竹皮包みを取り出した。


「鳳凰領の名物です。胡桃餅くるみもち。道中のお供にと思いまして」


 暁風は包みを受け取った。竹皮の間から、ほのかに甘い香りが漂う。胡桃を砕いて餅米に練り込み、蒸した後に一口大に丸めた菓子だ。鳳凰領の特産で、外側はしっとり、中は胡桃の粒が歯に当たる。噛むと胡桃の香ばしさと餅の甘みが口に広がる。


「……まだ食っていないものがある」


「え?」


「いや。——礼を言う」


 暁風は包みを懐に収めた。自分が何を口走ったのか、本人にも分かっていない様子だった。


 麗華はそれ以上追及しなかった。微笑みを残して、庭を後にした。足音が遠ざかり、衣擦れの音が消える。


 一人になった暁風は、腰掛けに座った。


 庭は静かだった。泉水の水音と、遠くの鳥の声だけが聞こえる。桂花の蕾が風に揺れ、まだ開かない花の香りが微かに鼻をくすぐった。


(帰れ、と言われた)


 正確には「帰ってもいい」と言われたのだが、暁風にとっては同じことだった。


(帰るべきだ。俺は皇帝陛下の将軍で、監視役として派遣された。報告は十分にできる。鳳麗華は反逆者ではない。領民を養い、領地を治めている。——それだけの報告で事足りる)


 懐の胡桃餅に手が触れた。竹皮の感触が掌に残る。


(帰って、それで——何をする。帝都に戻って、禁軍の仕事に戻る。宮廷の政治に巻き込まれ、宰相の顔色を窺い、形式だけの軍議に座る。雑穀の糧食を黙って食い、夜は兵舎で眠る)


 暁風は空を見上げた。秋の空は高く、雲一つない。鳳凰領の空は広い。帝都の空は宮殿の屋根に切り取られて狭かった。


(なぜ帰りたくないんだ)


 答えは出なかった。忠義が揺らいでいるのか。任務への責任か。それとも——


(違う。忠義は揺らいでいない。皇帝陛下への忠誠は変わっていない。だが——ここにいる理由が、忠義だけではなくなっている)


 暁風は立ち上がった。


 屋敷を出て、巡回に向かう。いつもの道だ。田畑を抜け、商店の並びを通り、外縁部へ。


 鳳凰領の端に来ると、景色が一変する。


 緑の田畑が途切れ、その向こうに灰色の荒地が広がっていた。草も木もなく、ひび割れた大地が地平線まで続く。風が荒地の砂を巻き上げ、乾いた匂いが鼻を突いた。生きている土と死んでいる土の境界が、ここにある。


 暁風は荒地を見下ろした。


 帝都への道は、この荒地を越えていく。帰還すれば、まずこの荒れ果てた大地を馬で何日も走ることになる。乾いた風と砂埃の中を、一人で。


(鳳凰領だけが緑だ。この領地の外は——死んでいる)


 暁風は荒地と鳳凰領の境界に立った。一歩前は緑。一歩後ろは灰色。この線が、この国の命の境界線だ。


(この領地を守ることは、この国を守ることだ。——そう思い始めている。それは忠義と矛盾するのか?)


 暁風は振り返った。夕日に照らされた鳳凰領が、金色に輝いている。畑の稲穂が風に揺れ、炊飯の煙が立ち昇る。どこかの家から夕餉の匂いが漂い、子供の笑い声が聞こえた。


 ここにいる理由。


 まだ言葉にはできない。だが——帰りたくない理由だけは、はっきりしていた。


 暁風は懐から胡桃餅を取り出し、一つ口に入れた。


 甘かった。胡桃の香ばしさと餅の柔らかさが舌に広がり、鳳凰領の土地の味がする。甘くて、温かくて、どこか懐かしい。


(まだ食っていないものがある)


 先ほど自分が言った言葉が、耳に残った。あれは何のことだ。この領地の食べ物のことか。それとも——


 暁風は荒地に背を向け、鳳凰領へ歩き出した。胡桃餅の甘さが、舌の上に残っていた。


 その夜、暁風は皇帝への密書を書いた。


『鳳凰領の状況は安定しております。鳳麗華は領地経営に専念し、反逆の兆候は一切見受けられません。灌漑改良が進行中であり、もう少し状況を把握した上でご報告いたしたく——もう暫くの滞在をお許しください』


 筆を置き、暁風は密書を見つめた。


 報告としては事実だ。しかし「もう暫くの滞在を」という一文が——言い訳であることは、暁風自身が一番よく分かっていた。


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