六つの区画
鳳家屋敷の奥座敷に、祖父がいた。
鳳老太爺。白髪を後ろで束ね、痩身に麻の袍を纏った老人だ。年齢に似合わぬ背筋の良さは、鳳家の先代当主としての威厳を今なお漂わせている。節くれ立った手が、茶碗を静かに持ち上げた。土に触れ続けてきた手だ。指の節が太く、爪の間にはどれだけ洗っても消えない土の色が染みついている。
麗華は六枚の図面を卓に広げた。
「祖父様。農地を六つの区画に再編し、輪作体系を導入したいと考えています」
「輪作か」
老太爺は茶碗を手に取りながら、穏やかに頷いた。碧螺春の薄い翠色が、朝の光に透けている。
「ふむ。見せてみなさい」
麗華は図面を指で示した。
「第一区画に稲、第二区画に麦、第三区画に豆。第四区画を休耕地とし、第五区画に粟と黍、第六区画に蔬菜。これを毎年ずらしていきます。豆を栽培した翌年の区画は地力が回復しているため、稲の収量が上がる。地養術で補いながら、土壌の力を均一に保つ設計です」
「なるほど。理にかなっている」
老太爺は図面を丁寧に眺めた。節くれ立った指が、区画の一つ一つを辿る。水路の位置を確認し、土質の異なる区画を見比べ、作物の配置を頭の中で検証しているのが分かった。
「豆を休耕の代わりに入れたのは賢いな。豆は地に力を返す。昔はそうやって土を回していたものじゃ」
「祖父様の教えです」
「わしの教えは基本だけじゃ。この設計はお前の工夫じゃよ」
老太爺が笑った。だがその笑みが消え、表情が真剣になった。
「だが麗華よ。一つ訊いてもよいか」
「何でしょう」
「この輪作体系は、地養術が前提じゃな?」
「はい。地養術で土壌を活性化しながら——」
「地養術に頼りすぎるな」
老太爺の声が、一段低くなった。部屋の空気が変わった。穏やかな祖父と孫の会話が、師と弟子の緊張を帯びた。
麗華は箸を止めた。
「祖父様?」
「地養術は万能ではない。術者の体力にも限りがある。お前一人で領地全体を回す今の体制は——危うい」
「危うい、とは」
「術が使えなくなったらどうする」
老太爺の茶色い瞳が、まっすぐに麗華を見据えた。穏やかな老人の目に、一瞬だけ鋭い光が過った。それは師としての厳しさであると同時に、祖父としての心配が滲んだ目でもあった。
「そんなことにはなりません」
麗華は反射的に答えた。声に力が入った。自分に言い聞かせるような語気だった。
「地養術は鳳家が百年守ってきた秘伝です。わたくしが健在である限り——」
「一人で。ずっと」
老太爺の言葉が、麗華の声を遮った。
「わしもそう思っていた時期がある。若い頃は一人で領地全体の地養をこなしていた。だが、いつかは限界が来るのじゃ。人の体はな、土ほど強くはない」
老太爺は茶碗を卓に置いた。碧螺春の表面に、小さな波紋が走った。
「お前の体は今は丈夫じゃ。だが地養術は術者の精気を消耗する。三十年。四十年。五十年と使い続ければ——わしを見なさい」
老太爺は自分の手を広げた。節くれ立ち、痩せた手。かつては麗華の何倍もの範囲に地養の力を注いでいた手だ。今は杖なしでは長く歩けない。
麗華は黙った。
「術が使えなくなる日が来るとは限らん。じゃが——」
老太爺は言葉を切った。何かを言いかけて、飲み込んだ。目が一瞬だけ遠くなり、百年前の何かを見ているようだった。
「……地養術だけに頼らない体制を作ることは、悪いことではないぞ。水路を引き、輪作で土を休ませ、術なしでも最低限の収穫が得られる仕組みを作っておくのじゃ」
麗華はしばらく沈黙した後、小さく頷いた。
「わかりました。灌漑の改良と輪作で、地養術の負荷を減らす設計を組み直します」
「うむ。——ところで、蓮子湯の匂いがするのう」
老太爺の声が、ふっと柔らかくなった。厳しい師の顔が消え、甘いもの好きの祖父の顔に戻る。
麗華は微笑んだ。卓の端に置いた小鍋の蓋を開けた。湯気が立ち上り、甘い蓮の実の香りが部屋に広がる。蓮の実を白砂糖と水で煮込み、百合根と棗を加えた甘味だ。
「祖父様のお好きな蓮子湯です。朝のうちに煮ておきました。百合根は今朝採れたばかりのものを使いました。棗は去年の蜜煮です」
「おお。気が利くのう」
麗華が蓮子湯を器に注いだ。乳白色の甘い汁の中に、ふっくらと煮えた蓮の実が浮かんでいる。百合根は煮崩れずに形を保ち、箸で持てるほどの柔らかさ。棗が蜜のような甘さを汁に溶かしている。老太爺の体を案じた、麗華なりの養生食だ。
老太爺は器を受け取り、匙で一口。蓮の実を舌の上で転がし、甘い汁を味わう。
「……旨い。お前の蓮子湯は、いつも旨いのう」
「祖父様に教わったのですから」
「わしが教えたのは基本だけじゃ。この味は、お前の工夫じゃよ。百合根の煮加減が絶妙じゃ」
老太爺が笑った。皺の深い顔に、温かな笑みが浮かぶ。
その笑みの奥に、麗華は何かを読み取った。言葉にならない何かだ。老太爺の目に過った一瞬の翳り。「術が使えなくなったら」という言葉に込められた重み。
単なる忠告ではない気がした。
「祖父様」
「何じゃ」
「地養術が使えなくなる——というのは、仮の話ですか? それとも、何かご存じなのですか」
「仮の話じゃ。——蓮子湯をもう一杯もらえるかの」
老太爺は穏やかに笑った。だが、その目は笑っていなかった。
麗華はそれ以上追及しなかった。蓮子湯を注ぎ足しながら、祖父の横顔を見つめた。白い髪。痩せた頬。土に生きてきた人間の風格。この人が何かを隠しているのは——長年の師弟であるからこそ分かった。
夜。
麗華は書斎に一人でいた。燭台の光が帳簿と図面を照らし、筆が紙の上を走る。五年計画の詳細を練り上げる作業だ。
だが、筆が止まった。
(術が使えなくなったらどうする)
祖父の言葉が、頭から離れない。
地養術。鳳家の秘伝にして、この領地の生命線。麗華が使えなくなれば、鳳凰領の食糧生産は激減する。それは国の飢餓を意味する。
今まで、その可能性を真剣に考えたことはなかった。
(わたくしが健在である限り、問題はない。そう思っていた。でも——祖父様は、何を知っている?)
麗華は筆を置き、窓の外を見た。月明かりが農地を青白く照らしている。稲穂が夜風に揺れ、銀色に光る。
この土地を守るために、自分一人の力で十分なのか。
その問いが、初めて胸に刺さった。
蝋燭の炎が揺れた。麗華は図面に向き直り、再び筆を取った。
地養術に頼らない体制。祖父の言葉を、もう一度噛み締めながら。




