暁風の日常
陸暁風の一日は、夜明け前に始まる。
寅の刻。空がまだ藍色に沈んでいる時刻に目を覚まし、寝台の上で体を起こす。息を整え、手足の感覚を確かめ、衣を着替える。軍人の習慣は鳳凰領に来ても変わらなかった。禁軍の朝は遅い者を許さない。その規律が体に染みついている。
練武場に出る。
鳳家の屋敷の裏手にある、土を踏み固めただけの広場だ。帝都の禁軍の練武場に比べれば粗末なものだが、暁風にとっては十分だった。体を動かせる場所があれば、それでいい。
剣を抜く。
素振りから始め、型を繰り返す。一振り、二振り、三振り。肩から先に力を抜き、体幹で刃を導く。息が白く曇り、汗が首筋を伝う。秋の朝は冷える。だが剣を振れば体はすぐに温まった。
五十振り。百振り。二百振り。帝都にいた頃と同じ数をこなす。手が抜けない。抜いたら自分が何者か分からなくなる——そんな感覚がどこかにあった。
いつの頃からか、見物人が増えた。
「暁風どの! 今日も早いですね!」
領民の若者たちが、練武場の柵越しに顔を出す。最初は「将軍様」と呼ばれていた。それが「陸将軍」になり、いつの間にか「暁風どの」になった。呼び名が変わるたびに、距離が縮んだ。
「おはようございます。棒術を教えてくれませんか」
「——構わないが、早いぞ」
暁風は剣を鞘に収め、棒を手に取った。
若者三人を前にして、基本の構えから教える。腰を落とし、棒を体の中心線に据え、相手の動きを待つ。
「力で振るな。腰で回せ。棒は腕で振るものじゃない」
「こ、こうですか?」
「違う。もっと腰を入れろ。——こうだ」
暁風が手本を見せると、棒が風を切って弧を描く。空気が裂ける鋭い音。若者たちが目を丸くする。
「す、すげえ……」
「すごくない。基本だ。これができなければ何もできない」
暁風の口調は素っ気ないが、教え方は丁寧だった。一人一人の癖を見抜き、最小限の言葉で修正する。言葉にする能力は低いが、体で見せる能力は高い。若者の手を取り、棒の角度を直してやる。
「明日も来ていいですか」
「勝手にしろ」
それが暁風なりの「いいぞ」だった。若者たちはもう慣れていた。
朝の鍛錬を終え、朝食を摂った後、暁風は鳳凰領の巡回に出る。
これが監視任務の本来の目的だ。領地の状況を把握し、皇帝に報告する。——建前はそうだ。
実態は、もはや散歩に近い。
「おや、暁風どの。今日もご苦労様です」
通りがかりの農婦が声をかけてくる。籠を背負った太った女で、野菜を市場に運ぶ途中らしい。
「うちの人が畑の石を退かすのに難儀しているんですが、お力を貸していただけませんか」
「……ああ」
暁風は畑に入り、大人二人がかりでも動かせなかった岩を一人で持ち上げた。腰を入れて、脚の力で。岩が土から抜けると、下から水分を含んだ黒い土が現れた。
「まあ、さすが将軍様! ありがとうございます!」
農婦が拍手する。暁風は泥のついた手を袖で拭い、黙って巡回に戻った。
別の通りでは、子供たちが暁風に駆け寄ってきた。五人ほどの群れだ。一番小さいのは四つか五つで、暁風の脛にしがみついている。
「暁風どの! 肩車して!」
「……俺は監視役として——」
「暁風どの! 暁風どの!」
暁風は無言で子供を肩に乗せた。子供がきゃあきゃあと笑う。高い位置から見る鳳凰領の通りに、子供は大喜びだった。
(俺は何をしているんだ)
内心で呟いたが、肩の上の子供を降ろす気にはならなかった。
「怖い人だと思ってたのに、優しいんだね」
子供の言葉が、暁風の胸に妙に残った。怖い人。——帝都ではそう見られていた。禁軍の将軍。無口で無愛想で、剣の腕が立つ男。それが暁風の評価だった。
だがここでは、子供が肩に乗る。農婦が石退けを頼む。若者が棒術を教わりに来る。
暁風は子供を肩から下ろし、巡回を続けた。
昼は領民の食堂で食事を摂った。
鳳凰領の中心部にある公共の食堂だ。天井が低く、壁は煤で黒ずんでいるが、いつも活気がある。竈の前では大鍋が煮え、湯気が天井に渦巻いている。席は長卓と長椅子で、農夫も職人も商人も同じ卓で肘を突き合わせて食べる。
暁風は隅の席に座り、田舎風の煮込み汁と雑穀飯を注文した。
煮込み汁は鶏の骨を煮出した白濁の出汁に、大根、人参、干し豆腐を入れて塩で調味したものだ。素朴だが、鳳凰領の野菜の力が味を支えている。大根は甘く、煮込むと繊維がほろりと解けて出汁を吸う。人参は土の香りが残り、噛むと甘みがじわりと滲む。干し豆腐が出汁を吸って旨みを膨らませ、一口ごとに味わいが変わる。
暁風は箸を取り、煮込み汁を一口。
「……旨い」
将軍が庶民の食堂で雑穀飯を食べている。その姿に、周りの領民はもう驚かない。最初の頃は物珍しそうに見られたが、今では「暁風どのの定位置」として認識されている。
「暁風どの、もう一杯いるかね」
「……もらう」
雑穀飯を追加し、煮込み汁にひたして食べた。穀物が汁を吸って柔らかくなり、噛むたびに味が広がる。帝都の禁軍で食べていた糧食とは比べものにならない。軍の糧食は腹を満たすだけのものだった。ここの飯は——体の奥に染み込んでいく。
(この領地の飯は——)
旨い。
それだけのことだが、暁風にとっては小さくない発見だった。食べることが「任務」や「補給」ではなく、「楽しみ」になったのは、鳳凰領に来てからだ。
午後の巡回を続け、日が傾き始めた頃。
暁風は鳳凰領の外縁の高台に立っていた。
西の空が茜色に染まり、鳳凰領の田畑が黄金色に輝いている。稲穂が風に揺れ、あちこちから夕餉の煙が立ち昇る。煙は真っ直ぐに空へ昇り、高い秋の空に溶けていく。
この風景が、もう日常になっている。
(俺は監視役として、この領地に派遣された)
自分に言い聞かせる。
(皇帝陛下の命で、鳳麗華の動向を報告するために。それが任務だ。それ以上でも、以下でも——)
ふと、視線の先に人影が見えた。
畑の中を歩く、藍色の袍の女。夕日を背にして、農地を見回っている。裾を紐で留め、白い麻の腕抜きをつけた実用的な姿。しかしその立ち姿には、後宮の品格が滲んでいる。
鳳麗華だ。
暁風の足が止まった。
別に珍しい光景ではない。麗華は毎日のように農地を巡回している。だが、この距離から見る麗華の姿には——何か、名前のつかないものがあった。夕日に照らされた横顔。風に揺れる黒髪。畑の中を歩く凛とした姿勢。
暁風は腕を組んだ。
(監視。監視だ。俺がここにいるのは——)
夕日が麗華の髪を赤く染めていた。
暁風は長い間、そこに立っていた。「監視」と「居場所」の境界が、夕暮れの中で曖昧に溶けていく。
風が吹いた。稲穂が波打ち、炊飯の煙が斜めに流れた。
暁風は、帰らなかった。




