朝の食卓
朝食は、仕事の場だ。
鳳家屋敷の居間に、三人分の膳が並んでいた。白粥に鹹菜、蒸した饅頭、卵の醤油煮。素朴だが栄養のある朝餉だ。湯気が立ち上り、朝の光に白く漂う。
鳳麗華、柳春蘭、そして陸暁風。
いつの間にか、三人で朝食を摂りながら領地の課題を議論することが日課になっていた。暁風が正式に参加するようになったのはいつからだろう。最初は麗華と春蘭の二人の食卓だった。そこに暁風が「巡回前に報告がある」と顔を出すようになり、「座ったらどうですか」と春蘭に促され、いつの間にか三人目の膳が当然のように置かれるようになった。
「まず水利から」
麗華が白粥を匙ですくいながら切り出した。白粥は鳳凰領の米を水で炊いたもので、余計な味付けはない。だが地養の米は粥にしても甘みが残り、舌の上で米の粒がほどけるたびに穏やかな旨みが広がる。
「五年計画の灌漑改良ですが、現行の水路は三十年前の設計のままです。水量が不足している区画が四つ。特に東端の第五区画は深刻で、雨が少ない年は収穫が三割落ちます」
「東端の水路は見た」
暁風が饅頭をちぎりながら口を開いた。蒸し饅頭は熱く、ちぎると中から白い湯気が噴き出す。暁風は一口頬張り、もぐもぐと咀嚼しながら続けた。
「構造に問題がある。水路の勾配が一定でない。途中で水が溜まる箇所が三つあり、末端まで水が届いていない」
麗華の箸が止まった。
「勾配の問題ですか。——よく見ていますね」
「兵站を組むとき、陣地の水確保は最優先だ。水がなければ飯が炊けない。飯が炊けなければ兵は動けない。水路の設計は、戦場なら命に関わる」
暁風は卵の醤油煮を箸で割った。黄身がとろりと流れ、醤油の甘辛い香りが漂う。半分を口に入れ、咀嚼しながら続けた。
「勾配を直すだけでは足りない。水源からの分岐点を一つ増やし、東端に専用の支線を引くべきだ。軍の陣地設営では——」
暁風は卓の上に指で地形を描き始めた。水路の現状、問題の箇所、そして改善案。指が動くたびに、明快な設計が浮かび上がる。水源の位置、本流の流れ、分岐点、堰の配置。
「——ここに堰を入れて水量を調整し、ここで分岐させる。末端の第五区画まで安定して水が届く。工期は十日。人手は二十人あれば足りる」
麗華は黙って聞いていた。暁風の指が描く図面を目で追い、頭の中で計算を走らせる。水量の配分、土質への影響、地養術との整合性。
やがて、小さく息をついた。
「使える方ですね、将軍殿」
暁風の手が止まった。
「……褒めているのか。使い潰す気か」
「両方です」
麗華は微笑んだ。悪意のない、しかし容赦のない笑みだ。暁風は鹹菜を箸で摘み、口に入れた。塩漬けの野菜の塩気が、居心地の悪さを誤魔化すように舌に広がった。
春蘭が白粥の碗を持ち上げ、微かに口元を緩めた。
「将軍殿の設計案、具体的な図面に起こしていただけますか。わたくしが領民の代表と調整いたします」
「……ああ」
朝食の膳が、いつの間にか会議の資料になっている。饅頭の皿の横に設計の走り書き。粥の碗の向こうに帳面。——これが三人の朝の風景だった。
朝食後、麗華と暁風は農地に出た。
鳳凰領の東端。問題の第五区画だ。
水路は確かに古びていた。石組みの溝が所々で崩れ、雑草が生い茂っている。水は細く、途切れがちに流れていた。溝の底に泥が溜まり、流れを塞いでいる箇所もある。
「ここだ」
暁風が水路の縁にしゃがみ込んだ。軍袍の裾が土に触れるのを気にもせず、水面を覗き込む。
「この辺りで勾配が変わっている。水が溜まって流れが遅くなる。——見てみろ」
暁風が水面を手で掬い、流れの方向を確認する。水が手のひらから零れ、光に透けた。麗華もしゃがんで水路を覗き込んだ。二人の影が水面に映り、重なった。
「確かに。水が淀んでいますね。この先の畑に届く頃には——」
「量が半分以下になっている。これでは作物が渇く」
暁風が立ち上がり、周囲の地形を見回した。高低差、土の質、水源からの距離。軍人の目で地形を読む手つきは、戦場を読むのと同じだった。風が吹くと、稲穂が波のように揺れた。
「ここに堰を設けて水位を上げ、新しい支線を北に引く。距離は約三百歩。工事は人手があれば十日で終わる」
「十日」
麗華が目を細めた。
「早いですね」
「軍の陣地設営なら三日でやる。民間工事なら十日は見る。——手を抜かなければ」
暁風は振り返った。
午後の陽光が畑を照らしていた。風が稲穂を揺らし、金色の波が視界いっぱいに広がっている。その中に立つ麗華の姿が、一瞬だけ——
暁風は視線を水路に戻した。
「設計図は明日までに出す」
「お願いします」
帰り道、二人は畑の畦道を並んで歩いた。暁風の歩幅は大きく、麗華は時折小走りになる。暁風がそれに気づいて歩幅を縮めるのだが、本人は無意識だった。
「将軍殿」
「何だ」
「監視のお仕事は、水路の設計も含まれるのですか?」
暁風が一瞬、足を止めた。
「……監視の一環で、領地の構造を把握するのは当然だ」
「ああ、なるほど。それはそれは、大変優秀な監視ですこと」
麗華は前を向いたまま微笑んだ。暁風は何も言い返せず、黙って歩幅を合わせた。耳の先が微かに赤い。秋の風のせいだ——と、本人は思っていた。
屋敷に戻ると、春蘭が二人を迎えた。
「お帰りなさいませ。——将軍殿、すっかり馴染んでおりますね」
暁風の眉がぴくりと動いた。
「俺は監視——」
「はいはい、監視でございますとも」
春蘭の微笑みは完璧だった。侍女の礼儀正しさの裏に、確かな皮肉が光っている。暁風は何か言おうとして、やめた。
この女には勝てない。
それは麗華に仕える者すべてに共通する確信だった。
暁風が自室に戻った後、春蘭が麗華に耳打ちした。
「お嬢様。将軍殿は今朝、朝食の席でお嬢様が粥を啜る仕草をじっと見ておりましたよ」
「春蘭。それは監視任務の一環でしょう」
「左様でございますね。大変熱心な監視でございます」
二人の女は、静かに笑った。




